空を飛べたなら(沖縄県) | コワイハナシ47

空を飛べたなら(沖縄県)

純子さんは高校生の頃、通学のバスに揺られながら、自分が空を飛んでいるところを何度も想像しながら時間を過ごした。それは、もしかしたらある種の「逃げ」だったのかもしれないし、どこか遠いところへ行きたいという願望の現われだったのかもしれない。

だがある日、いつものように通学のため朝のバスに乗って、太陽をぼんやりと眺めながら、ああ、あそこに行きたいな、太陽まで飛んでいけたらどんなに素敵なのだろうと考えていると、突然体が軽くなるのを感じた。

わぁ、あたし、もしかしたら飛べるかもしれない!

と、背中に天使のような翼が生えるのを感じ、するりと魂が自分の体から抜け出して、自由に大空へ舞い上がるのを感じた。もっと早く、もっと遠くへ! 純子さんは天使の翼を力いっぱい動かして、太陽の方へと舞い上がった。

力強く大空を飛翔する純子さんを止めるものは誰もいなかった。パタパタと翼を動かすと、バスの狭い座席から自分の体がどんどん浮き上がり、次第に加速しながら、見慣れた沖縄の町の上を滑空していくのが分かった。わあ、あたしって凄いじゃん! 空を飛んでいるんだよ! 純子さんは何度も感嘆の声を上げながら、晴れた沖縄の空を我が物顔に飛び続けた。

だがバスが学校に着くと、学生たちが一挙に降り出した。淳子さんも動き出したクラスメートのごついカバンが自分の肩に触れた瞬間、ふっと我に戻ってしまい、魂は肉体の飛べない牢獄の中に逆戻りした。

それでも彼女の心は晴れやかだった。

なぜなら、通学バスのわずかな時間だったが、自分は大空を飛べたのだ。誰もできないであろう事を、たった数十分の間で自分は成し遂げることができたのだ。その驚くべき成果に、純子さんは一人ニヤニヤしながら、教室へと向かった。

それから毎日、純子さんは通学途中に沖縄の空を飛びまわった。屋根の上の水タンクは朝日にギラギラ光り、渋滞に巻き込まれたバスよりも早く高校に到着し、校舎の上を旋回し、ある時は校舎の中にまで入り込んで、自分の座っていない机を確認したりした。

それは誰にも言えない楽しみ、ひそやかな自分だけの世界で起きる、一瞬のきらめきのようなものだった。

だから、まさか自分の姿が第三者に見られることがあるなどということは、一度も考えてみたことがなかった。

ある快晴の月曜日。純子さんはいつものように朝起きて、歯を磨き、髪の毛をセットして、着替えてから外に出た。誰にも汚すことのできない月曜日の雲ひとつない青空が眼前に広がっていた。

「今日も飛んでやる!」純子さんはそう思いつつ、意気揚々とバスに乗り込んだ。いつもの窓側の一人席にどっかと腰を下ろし、外から差し込んでくる太陽の暖かなまなざしを感じつつ、目をつぶり、エンジン音と乗客の喋り声から遥か遠い場所へと、深く深く落ちていった。

気がつくと、いつものように沖縄の空の上を旋回していた。カラスが自分にびっくりして、鳴き声を上げて逃げていったのが分かったが、別段気にも留めなかった。右旋回、学校が見える。よし突撃。急降下! 純子さんは生徒たちが集まり始めている校庭へと凄いスピードで降下し始めた。

すると学校の雑事を行っている一人の用務員が、校庭のはずれでゴミを片付けているのが見えた。良く知っていて、何度か声をかけたことのある優しいおじさんだったので、純子さんは空を飛んでいることも忘れ、上空を旋回しながら用務員に挨拶をした。

「ハロー!」

するとその用務員のおじさんは、いきなり空から声が聞こえたのでびっくりして見上げてから、大きな声で悲鳴を上げた。それは人間がこんな声を上げることができるのが不思議なくらいの、切り裂くような叫び声だった。その悲鳴に心底びっくりして、純子さんはバスの中の肉体にいきなり戻ってしまった。

え、嘘だよね。見えるわけないのに…

この時点まで、純子さんは自分の精神が肉体を実際に飛び出しているなんて、半分妄想のように考えていた。これは自分の精神が生み出した幻想であって、単なる妄想の延長線上のことなのだと。だが校庭の用務員は確かに自分を見て悲鳴を上げたのである。

この瞬間から、純子さんの妄想は、次第に恐怖へと変わっていった。学校へ到着しても、恐ろしすぎて用務員室や彼の居そうな校舎裏などには近づけなかった。

放課後、友達と話していると、用務員の一人が何か恐ろしいものを見たとかで、ユタを呼ぶ呼ばないの話になっているという噂を聞いた。友人たちは「オバケでもみたんじゃない」と気楽に話していたが、淳子さんにとっては気が気ではない恐ろしい話だった。もしかしたらこれで自分の正体がばれて、自分は逮捕されるのではないだろうか? 幽体離脱の特技がばれて、アメリカ軍の超能力部隊とかからスカウトされて、「うちに来なければ家族の命はないものと思え」などといきなり言われるのではないか。そんな平時だったらおかしな妄想で片付けられそうな考えが、妙なリアリティを持って胸の中を締め付け始めた。これで私はもう終わり。そんな言葉を何度も心の中で呟きながら、純子さんは急ぎ足で学校をあとにした。

家に帰った純子さんは、一つの恐ろしい事実に気がついた。それは自分が実際に体外離脱しており、誰にも見えないと思われていたにも関わらず、実際の誰かにははっきりと姿が見えるということだ。

それに加えて、なぜかこんな恐ろしい声が頭の中に響き渡った。

「三回他のものに姿を見られると、お前は必ず死んでしまうだろう」

純子さんはその日からノイローゼのようになってしまい、学校にはかろうじて行っていたものの、通学バスの中では空を飛ぶこともなく、ただうつむいて過ごした。だがしばらく経ったある日には、ぼんやりしているだけで意識が肉体から離脱して、雨模様の沖縄の空に飛び上がっていった。少しくらいならばれないだろう。それにこんな雨の天気だし。結構な量の亜熱帯性スコールが降り続いていたが、彼女の魂は濡れることもなく、雨空の上を漂い続けた。

と、近くの中学校が見えてきた。中学の制服を着た一人の女子が、傘を指しながら上空を指差している。その口はぽかんと開き、金切り声のような悲鳴を上げている。その指差しているもの、それはまさしく自分なのだった。

見られた! 肉体に戻った純子さんは思わず小さな悲鳴を上げてしまった。

これで二度目だ。もう後がない。きっと私は死んでしまう。学校に行く途中、自然と涙が頬を流れた。何人かの友人たちや先生が彼女の様子を見て心配してくれたが、淳子さんにはもはや自分の境遇や、なぜ死んでしまうかについて、事細かに周囲に説明することができなかった。理由を説明しても彼らには理解できないばかりか、私を助けてくれることすらできないだろう。それを考えると深い悲しみが純子さんを襲った。家に帰っても一人で泣きじゃくることしかできなかった。

夕方になりひとりで家にいる純子さんの下に、母親がパートの仕事から帰って来た。泣きじゃくっている純子さんを見て、母親は何かあったのだとすぐにわかって、彼女を居間に座らせて話をした。

「純子、何か学校であったの?」

最初のうち純子さんは何から話していいものやら、頭の中の整理ができなかった。だが意を決してすべてを話す事にした。だってあなたは私の母さんだもの。私は母さんの子どもなのだ。もし誰か私を助けてくれる人がいるのならば、それは母さん以外にはありえない。それにどうせ死ぬんだから、母さんにさようならを言わなければ。

「母さん、私、死ぬの」ようやくのことで純子さんは言葉を紡ぐことができた。

「どうしてそんなことをいうの?」

「私ね、通学バスの中で、空を飛んだの」

「どうやって空を飛んだの?」

「頭の中で、お空を飛びたいって願っていたら、体から魂だけが抜けて、天使みたいな羽が生えて、そのまま飛んだの。飛ぶのは凄い楽しかったんだけれど、ある日用務員のおじさんに姿を見られて、それから頭の中の声にこんなことを言われたの。『お前は三回姿を見られたら、死ぬ』って。もうあたし、二回も他の人に飛んでいる姿を見られちゃったの。だから死んじゃうのよ」

そう告白して、純子さんはもう泣きじゃくるしかなかった。どうせ自分は命がもうないのだという確信と、母親にも私の痛みは決して理解なんかしてもらえないだろうという絶望感からだった。

ところがふと母親の顔を見ると、純子さんの方をじっと見つめながら大粒の涙をぼろぼろと流している。

「母さん、どうして泣くの?」

「当たり前じゃない。私の娘なのよ。あなた、死ぬ気なの?」

「だってもう、逃げられないの」

「お前、馬鹿なこと言うもんじゃありません。誰がお前を殺させるものですか。背中の羽、今も生えているの?」

純子さんはそういわれて背中に手を伸ばした。するとそこには小さくではあるが、羽毛の生えたやわらかい翼のようなものが確かにあった。

「ある」純子さんは静かに言った。

「その羽、私にちょうだい」

「そんなこと、できないよ」

「何言っているの。それがあったら、あなた、死ぬんでしょう? あなたを死なせることなんか、私にはできません」

そう言われて、しぶしぶ純子さんは背中に手を伸ばし、羽を引っ張ってみた。最初は羽は容易に外れてはくれなかったが、目の前でぼろぼろ涙を流してくれている母親の姿を見ていると、なんだか自分の中に感情の爆発のようなものが現われてくるのが分かった。いつもそばにいてくれた母親に対する感謝と愛情が一気に噴出してきて、その瞬間背中の羽が、パキッと音を立てて外れるのが分かった。

「母さん、外れた!」

「じゃあその羽を私にください」母親がそっと、両手を純子さんの前に差し出した。純子さんは背中からもがれたばかりの二枚の羽を、ゆっくりと母親の両手の上に置いた。母親の腕の上で、羽はしずかに消滅していった。

「これでお前は死にません。絶対に死なせるもんですか」そう母親は、力強く言った。

淳子さんと母親は、抱き合いながら泣いた。純子さんの口からは「ごめんなさい」以外の言葉は出てこなかった。母親は淳子さんに何か良くないものが取り憑いていると感じ、それを喜んで身代わりとして引き受けるつもりだったのだが、幸いにも母親には何も悪いことは起こらなかった。

それ以降、純子さんはバスの中でも飛ぶ夢を見なくなった。もしあのまま飛び続けていたら、きっと私はそのまま死んでいたのだろうと、純子さんは今でも考えている。

現在でも彼女の通っていた高校には、校庭を飛び回る女の幽霊の話が、まことしやかに語られ続けている。

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