手形の傷痕 山手大空襲(東京都 山手) | コワイハナシ47

手形の傷痕 山手大空襲(東京都 山手)

二年前ほどから、昭和二〇年(一九四五)五月二五日の〈山手大空襲〉にまつわる奇譚を集めている。蒐集しはじめた頃は新鮮な素材を手に入れて興奮していたため、ろくに吟味もせず書いていた。あとから読み返して生半可な出来だったことに気づき、今年(二〇一七)、晶文社から上梓した『迷家奇譚』では、あえて書かなくてもよいと判断した。

しかし、当初の予定では収録することになっており、担当編集者も山手大空襲の話が入るものと承知して、目次を立てていた。

私はページ数が足りていることを理由に、計画を変更したいと申し出た。担当編集者は快諾してくれた──これが今年の三月十一日の夕刻のことで、私は担当編集者に電話で相談したのだった。

その時点で『迷家奇譚』の原稿はすべて書きあがったことになり、私は久しぶりに家族と近所のレストランに行き、ワインを飲んだ。

そのレストランやうちのマンションのある辺りも、山手大空襲の折には建物はことごとく焼き払われ、多くの死傷者が出た地域だ。焼夷弾の重油と焼死体から流れ出る皮脂が混ざった黒い油脂が、地面を網の目状に覆っていたそうだ。雨水や生活排水を流す溝に、黒焦げになった人の死骸がみっちり詰まっていたという話もある。

書かないことにした話を反芻しながら、ほろ酔いで自宅マンションに戻った。たしか夜の一〇時くらいだったと思う。

うちのマンションの建物は横に長く、エレベーターが三基ある。エントランス・ホールの奥に一基、ホールの右手にある五、六段の短い階段を下りた先に続く長い廊下沿いに二基。我が家は廊下のいちばん突き当りのエレベーターで昇った上階にある。

私は家族のしんがりを歩いていた。夫と息子が先に階段を下りた。二人が廊下を進みだしたとき、私はまだ階段の上にいた。

そのとき、何者かが私の左足の足首を強くつかんだ。

声も出なかった。私は階段を転げ落ち、何が何やらわからぬうちに側頭部を廊下の壁に打ちつけ、左手の中指の生爪を剥いだ。意識朦朧として廊下に倒れ伏したところを、夫に抱え起こされた。「大丈夫か」と夫は私に声を掛けてきたが、大丈夫なわけがなかった。

足首の異様な傷痕に気づいたのは、生爪が剥がれた指の応急処置を終えたあとだった。

赤く爛れて、地腫れがし、ところどころ表皮が剥むけて出血している。水泡も出来ており、一見して火傷だとわかる傷だが、火傷をするわけがないので、わけがわからない。

はじめは、足首からくるぶしにかけて複数の傷があると思ったが、よく見ると五本の指を備えた手の痕になっていた。

ためしに、自分の左足の踵に左手の掌をあてて、親指を内側のくるぶしに置いて足首を握り締めると、手形の輪郭は私の手より一センチぐらい大きくはみだした。

私より手が大きい何者かが、階段を下りようとする私の足首を下からつかんだのだ。

翌日、私は担当編集者に電話をかけて、山手大空襲の話を書かないと決めた途端に怪我をしたので、怖いから、やはり書くことにしたいと伝えた。

担当編集者は理解を示し、だったら、本の前書きと後書きの代わりになる掌編を書いたらどうかと私に勧めた。

一冊の本を、柳田國男が『遠野物語』で描いた〈マヨヒガ(迷い家)〉に見立てて、入口と出口を設けるという意味のある提案だったから、私は賛同して、さっそく二本の掌編を書いた。そして、本の出口にあたる最後の掌編に、「死屍累々として、街路樹は焼け落ちている」という山手大空襲の描写を入れた。

これは当初、予定していた山手大空襲の逸話ではなかった。手形の警告は恐ろしかったが、優れた提案の方を優先するのは作家として当然だと思った。

怪我は幸い、どれも順調に癒えていった。生爪を剥いだところなど、痕も残らなかった。

ただし、左の足首の手形だけは、傷痕が残ってしまった。

火傷の痕というと、ケロイドを想起するが、うっすらと黒ずんだシミになった。

手の影が皮膚に映っているかのようでもある。

この傷痕を見るたび、私は、表参道の石灯籠には山手大空襲で焼け死んだ人の影が残っている、という話を思い起こすのだ。

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