山田浅右衛門(東京都 池袋) | コワイハナシ47

山田浅右衛門(東京都 池袋)

池袋の祥雲寺には、歴代の山田浅右衛門の系譜を書いた〈浅右衛門之碑〉がある。

山田浅右衛門は、柴田錬三郎氏『首切り浅右衛門』(講談社文庫)など数々の小説に登場し、時代劇漫画『子連れ狼』の主人公・拝一刀のモデルだという説があるが、実在の人物である。

その名前は「御様御用」という刀剣の試し斬り役と共に襲名されたので、初代から数えて八代目までが、祥雲寺〈浅右衛門之碑〉に記されている。

一七三六年(元文一)に初代浅右衛門が「御様御用」を息子に世襲させることを幕府が許可してからというもの、幕末まで、歴代の山田浅右衛門は皆、浪人の身分のままだった。二代浅右衛門が八代将軍徳川吉宗の前で試し斬りを披露したことまであるというのに、だ。

浪人には、俸禄である「知行ぎ」が藩主や出仕先の殿様をはじめ何処からも出ないから、貧しく無名であるのが当たり前だが、山田浅右衛門は碑が建てられるほど高名であり、大名に匹敵するほどの富を得ていた。

山田浅右衛門は、公儀である「御様御用」については幕府から金銀を拝領していたほか、死刑執行人・処刑代行人としても録を受けていた。しかし最も大きく収益をあげていたのは、伝馬町の牢内で採取した死人の臓器などの売買だったという。

江戸時代まで、人体と臓腑の各部位はさまざまな薬効があるとされ、薬品として流通していた。よく知られていたのは内臓からこしらえる〈人膽〉もしくは〈人胆〉で、山田浅右衛門も、〈人肝丸〉という丸薬を製造・販売して荒稼ぎしたと言われている。

死体から肝臓を抜き出し、陰干しして乾燥させ、しかる後にすり潰して粉末にして、ツナギを入れてよく練り、丸めたのが山田家特製〈人肝丸〉。

梅毒や結核など、当時は罹かかれば命取りだった病の特効薬だと謳うたって、高い値段をつけて売りまくったのである。処刑するのも腑分けするのも薬として売るのも自分たちだから、効率の良い家内製手工業なのだった。

江戸時代から近代まで、〈人肝〉の効能は広く信じられ、たとえ手にしたことがなく、原材料や効果のほどを知らなくとも、「よく効く薬」として庶民に名前が浸透していた。

一説によれば、音読を同じくする口中清涼剤「仁丹」の商品名の由来は、〈人肝〉だそうだ。「仁丹」は今でこそ極めて小粒で銀色をしているが、一九〇五年(明治三八)に発売された当初は、赤い大粒の丸薬だったのだという。

祥雲寺の碑文に名前が記されていない九代目山田浅右衛門吉亮は、大久保利通を暗殺した「紀尾井坂の変」の実行犯たちや「希代の毒婦」高橋お伝に刑を執行した、明治時代の人である。

明治政府は一八七〇年(明治三)四月に、〈人肝丸〉の原材料となる死体の臓器の密売を禁じ、一八八二年(明治一五)には試し切りも厳禁とすることを公布した。しかし斬首刑は高橋お伝を処刑した一八七九年(明治一二)まで継続されたので、山田家はしばらくの間、血なまぐさい仕事を請け負い続けたのである。

一九〇八年(明治四一)七月一〇日付の「報知新聞」夕刊に、「首斬り朝右衛門」という、九代目の吉亮のインタビュー記事が掲載された。「浅」と「朝」の違いがあるが、山田朝右衛門と名乗ることもあったとのこと。

どうやら、当時、山田家の屋敷には真夜中になると幽霊が出て騒ぐと噂されていたらしい。いわゆる騒霊めいた怪談だが、山田家では斬首刑のあった日に芸者を呼んで若い弟子たちと夜を徹してどんちゃん騒ぎをする習慣があり、深夜の大騒ぎを不審に思った近隣の人々が誤解して広まった噂のようだ。

新聞のインタビューでは、怨霊が怖いからと、一晩中騒いで怖さを誤ご魔ま化かしていたわけでもないと吉亮は述べている。

「手前共どもの麹町区平河町一丁目の邸に幽霊が出ると世間での評判は道理千万、手前にしたところで齢よわい十二歳から幕府の届出を十五歳と披露して斬り始めた、されば三百有余人の怨霊取付くものなら今日まで命が幾いくつあつても足りる訳のものではありますまい」

山田家には、仏壇にその日のうちに処刑する受刑者の人数分の蝋ろう燭そくを灯しておく習慣があった。処刑場で一つ首を刎はねるごとに、仏壇の蝋燭がひとりでに一本ずつ消えてき、すべての灯が消えると間もなく浅右衛門が帰ってきたという。

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