今は都内の広い一戸建てで悠々自適な生活を送っている北さんは、暮らしにゆとりが生まれるにつれ、母と二人で苦労した時分を想い出すようになってきたという。
北さんの父は、彼が子供の頃に大病を患わずらい、二〇年も寝たきりになった末に五〇代で死んだ。艱難辛苦の果てに母が逝ったのは一九七八年(昭和五三)の六月一日のこと。
深夜から未明にかけて新聞をトラックで輸送する仕事をしていた北さんが朝方帰宅したとき、いつもならとっくに起きている母がこの日に限ってまだ寝ているのでおかしいと思ったら、眠ったまま事切れていた。
母の死因は脳溢血だった。享年六一。楽をさせてやる前に喪しなってしまったことが、当時二八歳の北さんには悔しかった。
母子で暮らしていたアパートは環状七号線沿いにあった。ひっきりなしに車の轟音と地響きが伝わってくる、鉄製の外階段を上ってすぐの二階の一室だ。
大人が二人立つことも出来ない狭い三和土たたきを上がると三畳の台所。玄関の正面にあるガラス障子の引き戸を開けると、六畳間と八畳間が境い目に襖を挟んで続いている。八畳間には、母が亡くなる前から父の位牌と骨壺を祀った仏壇があった。
北さんは母の死後、家族の墓を建てて、両親の骨壺を納めた。仏壇には母の位牌も加わった。母の生前からの習慣で八畳間との襖を立てて、六畳間で寝起きする生活を続けた。
長い間、母と二人で、お互いに倒れないようにつっかえ棒をし合って生きてきた。
独りきりになっても、北さんは、すぐには暮らし方を変えられなかった。遊びを知らず、それまで恋というものもしたことがなかった。夜中の新聞輸送トラックの仕事は性に合っていたけれど、勤務中も独り、帰宅しても孤独。
母の死後二年も独りぼっちでいたら、会話の仕方も忘れかけた。
三回忌の七月、東京の盆の入りの日、休暇をもらって珍しくまともな時刻に床に就いた。
しばらく眠っていたが、突然、意識が覚醒した。頭は冴え冴えとしているが、瞼まぶたが開かない。手足も動かせない。「金縛りだ」と思って怖くなったが、声も出せなかった。
──と、そこへ、鉄の外階段に聞き覚えのある足音が響いた。
カン、カン、カン、カンと一歩ごとに変な間が空いている。母には高血圧と狭心症の持病があり、心臓に負担をかけないようにと医者から厳重注意されていた。だからいつも一足ごとに踏みしめながら、ゆっくりと外階段を上った。カン、カン、カン、カン、と、ちょうどこんなふうに。
階段を上がれば、すぐにうちの玄関だ。合鍵で鍵を開けて三和土に立った気配がしたかと思ったら、脱いだサンダルの片方を三和土のコンクリートにパタッと落とす音がした。
最初に脱いだ方をパタッと落とすのは、母が靴を脱ぐときの癖だった。その後、屈んで靴を揃えるしぐさまで目に浮かんだ。
もはや母としか思えない何者かは、立ち上がって、一歩、二歩、三歩……台所の板敷をかすかに軋きしませて近づいてくると、北さんが寝ている部屋のガラス障子を大きな音を立てて開いた。
畳の上を、ややすり足で来る。ああ、この歩き方、やっぱりやっぱりお母さんだ、と思ったが懐かしさよりも恐ろしさが先に立った。
金縛りで逃げようがないということが恐怖に拍車を掛けた。
枕もとに座り込んだ母が自分の顔を覗き込みながら、布団に手をついて覆いかぶさってきたのが物音と気配でわかった。冷たい息が口もとに掛かって戦慄し、喉の奥で悲鳴の塊を張り裂けそうに膨らませたら、ようやっと金縛りが解けた。
「体が自由になると同時に、布団の上にガバッと起きました。全身汗びっしょりで……。
うっすらと朝陽が布団や畳の上に差していました。それで明け方だとわかりました。
母の姿は消えてましたが、閉めたはずのガラス障子と襖が開いていて、奥の部屋の仏壇が僕が寝ているところから見えたので、思わずすぐに仏壇に飛んで行って成仏してくれと祈ってしまいましたっけ。
だけど後になって、あのとき母は僕のことを心配して出てきてくれたのに違いないと思うようになったんですよ。
父も若くして亡くなりましたが、父方の家系には短命の傾向がありました。そのせいで、母は生前、僕に、三〇までに結婚しろと口を酸っぱくして言ってたんです。ところが三〇歳になっても僕は相変わらずトラックと寝床を往復するだけで、独りっきりで暮らしてたでしょ?だから見るに見かねて出てきちゃったんでしょうね。
怖がって申し訳なかったなぁ。『お帰りなさい』と言って歓迎してあげればよかったと今は反省してます」
母の来訪からほどなくして、北さんはある女性と出逢って結婚して一子に恵まれ、仕事上でも好い転機が訪れて公私ともに充実した。孤独な夜の日々が今や夢のようである。