旧藩武家の屯田兵の悲惨な末路(北海道 札幌、旭川、函館) | コワイハナシ47

旧藩武家の屯田兵の悲惨な末路(北海道 札幌、旭川、函館)

屯田兵が北海道近代歴史を作っていった。

最初に作られたのは1868年、函館戦争に決着がつき、明治政府の敵となった東北の藩士を送り、開墾と農作業、それに兵として訓練を行う、半農半兵を行わせた。

この方法、実は薩摩藩の郷士制度からきているのだ。

北海道の開拓の歴史に、薩摩は大きくかかわっている。日本の真逆の位置にあって、なぜ? と思うだろう。明治維新で北海道の開拓を推し進めたのは、薩摩閥なのだ。

人斬り半次郎と恐れられた桐野利秋がその発起人ともいわれている。会津との闘いの後、自害した女性達、悲惨な会津の状況を見て、涙を流し、明け渡しの大役を果たした。

「郷士」だった桐野は示現流の達人だった。京都での血なまぐさい幕末動乱期には「人斬り半次郎」と呼ばれた。

常に西郷隆盛を慕い、護衛と時には刺客として近くにいた。

薩摩に伝わる示現流は、一撃必殺が決まりであり、北辰一刀流のように、向かい合って間合いを見るという現在の剣道とは違い、相手が刀を抜く前に瞬時に袈裟懸けに斬りつける手法だった。

また薩摩の島津家は戦国時代から江戸時代までお家を保持したが、島津家を玉として、玉を守るために、家来は砕けるのも命も惜しまない、という絶対君主の考え方「玉砕」があった。

だから薩摩志士は目つきが違う。常に対峙する時は、殺気があった。

何かあれば自分が犠牲になり、君主を残すという「玉砕」。それを郷士は子供の頃から学ぶ。

子供の頃から年齢ごとに分けられた青年部がある。年長の者はリーダーとして、徹底して示現流の教えを説く。幼少から竹刀や真剣を持って人型に一撃必殺を食らわす。成長したころには見た目は百姓、中身は立派な軍人になる。

そろばんはじきに道場通いの旗本や幕臣より強く、常に土から作物を生み出す能力を備えている。長戦に耐えるには最高の能力を持つ。

幕府を倒す力は、着々と整っていた。薩摩の新政府樹立は別段驚くまでもない。

もう一つ、百姓の姿をするメリットがある。

薩摩は鉄砲伝来の頃から軍需工場も持つし、絶対秘密主義だった。スパイが来てもわからぬよう、大和言葉と違う言語を作った。今でもわかりにくいのは、当たり前。日本語じゃないからだ。

そして、百姓は常にクワやスキなど、鉄製の道具を持っていても不思議じゃない。

不審人物がいると、年老いた百姓が笑顔で近づく。

次見たときには頭から血を流し倒れている。

その百姓のクワから血が流れていた。一瞬で脳天から勝ち割る流派なのだ。

その流儀が、東北出身の藩の武士に浸透はしなかった。ほとんどが、農地を耕し食べることを優先した。示現流も完璧に精神論の域で、また技についても教える者がいなかった。

それは薩摩の秘密主義に理由がある。ちぐはぐな経営がスタートしたわけだ。

そして、北海道は弥生時代がなかった。

縄文時代の後は永くアイヌの時代が到来する。米が作れなかったからだ。

石狩平野は泥炭の層になっており、低温から、田んぼの肥料に必要なバクテリア等が生まれず、川も氾濫を繰り返しては泥をまき散らす土地だったからだ。

それを身を持って学んでいるアイヌ人は、無理に農業をしなかった。畑に実るものだけ食べていた。

だからアイヌ人と本州以南の日本人は体質が違う。アイヌ人は歯磨きしなくても虫歯にならないとか、それは長い食習慣で、消化酵素から違っているからだ。

同じく、薩摩も米が取れない。桜島の火山灰で作られた土には米が実りにくい。犬猿の長州と手を組んだのも、米を譲ってもらえるから。それくらい、米に困っていた。

東北の旧藩から北海道に渡った屯田兵たちは必死で開墾し働いた。力を合わせれば、水田ができ、米が取れる。

先住民のアイヌ人を追いやり、石狩平野に水をひくために、蛇行する石狩川をまっすぐにさせるために河川工事を行う。

まっすぐにさせることで、水底の泥が削られ海に排出される。水位が下がるために、洪水の心配が減った。

北海道の稲作の黎明は、石狩川の河川工事にかかっていた。その土木仕事も彼らが始めた。後に平民も屯田兵になる。

だが、西南戦争が勃発する。不満士族を引き連れ、九州でクーデターを起こすために北海道を治めた薩摩藩の桐野利秋は政界から下野した西郷隆盛に従って鹿児島へ戻る。

慌てたのは、同じ薩摩藩の軍部だった。恩のある西郷に銃弾を撃つなんでできない。

その時、兵として使えるメンバーを思い出す。それが屯田兵だ。

彼らは維新の戦争で、相当に薩摩長州を憎んでいる。北の大地から、南端の九州まで戦いに向かわせた。そして相当の死者が出た。

立派に戦い、その後政府の要職に就いた者もいた。

生き残った兵は、日清、日露戦争でまた戦った。有無言わさず戦闘に向かわせられる。それが明治政府に立てついた旧藩のみせしめのように。

いつしか本来の武士は途絶えた。

しかし、屯田兵が開拓した後は街も栄え、太平洋戦争後は自衛隊の駐屯地となった。

現在の千歳駐屯地が一番大きいが、その頃の勇敢な兵士の名残を引き継いでいる。

今も屯田兵の慰霊碑は立っている。しかし気づく人は少ないかもしれない。

一つは水田の見える山の中にひっそりと建っていた。

鍬を持って戦う練習をしていた、あの当時の屯田兵の姿が見えるようだ。

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