『サトリ』
そう人は彼のことを呼んだ。
昭和もまだ始まりの頃のことである。
彼は小さい頃から誰が帰ってきているか、誰が遊びにきたかを当てていた。土が盛ってある場所に連れて行くと、その下に何が埋まっているかも当てた。
その噂を聞いて、金の鉱脈まで探せないかとやってきたヤマ師もいた。
最初、彼の親は驚嘆し、「神の子」として売り出した。鉱脈を見つけた時は相当なお金が家に入り、彼は家計を支える子になった。
だが、祖父母が次々と急死したり、飼い犬が無残に殺されたり、火事があったりと、忌む事が多くなった。近所で火災や強盗があると、彼の家のせいにされることも増えた。
「あの家には『サトリ』がいるからだっぺ」
今でいうエスパーや超能力者も霊能者もひっくるめて『サトリ』と呼ぶ時代だった。
人の心を読める、見えざるものが見える、未来がわかる。
この少年に期待と畏怖が同時に襲い掛かる。
彼は霊が見えて辛かった。
都会からやってきた商売人風の男の背後にくっついている、首に縄をつけて苦しそうな霊。片手だけが少年の足首に群がって引っ張っぱられることも。
時には、笑顔で近づいてくる田舎風のおばあさんの後ろにナタで頭を割られた人が何人も立っていたり。
近付いてくる笑顔の大人はいつも、奇妙な死に方をした霊を背負っていた。
そんなのには慣れていたが、衝撃だったことがあった。
自宅の座敷牢にいたときだった。
食事を運んできた母親の顔を見ると、しっかりと母の腰を抱いた青年が立っていた。母親の顔に自身の顔を近づけて妖しい表情で立っている。
しかし、サトリはそのとき何も言わなかった。
次に父親が入ってきた。父の顔の横には、いやらしい顔をした女がくっついている。しかし、その女の手には包丁があった。父親の胸に突き立てている。彼は思わず言う。
「お父さん、今付き合っている女は良くないよ。お金目当てでいつか刺される」
父親は何とも言えない驚いた顔を浮かべ、奇声を上げて出て行った。
次に母親が入ってきた時は、腰に手を回した男が初老の眼光鋭い男性に変わっていた。毎日違う男が母親にまとわりついているようだ。
「お母さん、今日も違う男の人と会ってきたんだね」
そう言うと、母親も食事を落っことして、奇声を上げて出て行った。
両親は『サトリ』をお寺に預けることにした。修行僧が荒行を繰り返すという筑波山の山寺に。修行に入る時、彼を見送る両親の心の声が聞こえた。
「もう帰ってこなくていい」
「変な子を産んでしまった。気味が悪い」
『サトリ』にはそれが一番つらかった。
山寺はうっそうとした樹木に囲まれ、冬は凍てつく寒さであった。
しかし、サトリから見たこの寺の周りは、空気がとても清らかで居心地が良かった。
ほとんど人間が住んでいない場所だけに、特に霊を見る事がなかったのだ。
修行僧や寺住まいの人、和尚が帰ってくるのを当てるのは相変わらずだった。
「和尚さん、お帰りなさい!」
と障子越しに大声で叫ぶ。
「おお、ただいま」
和尚はいつも驚かずに答えてくれる。驚くのは同じ部屋にいる修行者の人々だ。
「君、何で誰が帰ってきたってわかるんだい?」
「足音ですよ」
とうそぶいて答えていた。もちろん足音で判断しているのではなかった。
寺に住まうようになって1カ月ほど経った頃だった。
夜中、障子越しに聞こえて来る音が気になるようになった。
廊下をひたひたと歩く音が次第に大きくなり、いつまでも止まらないのだ。
怖いながらも、そっと障子を開けてみた。
しかし誰もいない。
そのことが続き、ある夜、いつもより寝苦しくて起きると、寝所の障子の向こうに複数の人影のようなものが見えた。お経を唱える声だろうか。だが声が揃ってはいない。少しずつ違うお経を読んでるか、タイミングをずらしているような声だ。
お寺にいる僧侶たちが修行の為に筑波山の藪の中へ入り、荒行をしているとは聞いたことがあったが、それとも違う。
でも、その人影は生きている人間には思えない。ここで亡くなった僧の霊か何かだろう。
伊藤さんには、それでも障子の向こうの人影は、今まで自分が見てきた心霊とは違うと感じていた。僧の霊にしては随分邪悪な感じがするのだ。
次の日、ついに和尚に相談するとこう答えた。
「もし幽霊か妖怪が見えたときは、言葉を言ってはいけないよ。そして、扉の外にいるなら開けてはいけない。何かあったら、私が教えたお経だけを覚えて唱えるようにしなさい」
その日の夜、また障子越しに念仏を唱える人影が見えた。
「うわ!」
思わず声を上げてしまった。
声を出さずにいたら、魂が吸い取られるような気がしたからだ。
すると、ピタリとその声は止んだ。
人影も1人、また1人と消えていくように見えた。数人いた影が消えていった。
だが1人、左側に背の低い人が座っているのか、ずっとそれだけは残っていた。
(絶対に声出したらダメだ!)
彼は驚きの叫び声も絶対に上げないよう、ずっとお経を唱えた。
人影も歩く音も消えた。だが左側にいる座ったような低い頭の霊がまったく身動きしない。お経めいた声も聞こえなくなり、どうやらこちらの動きを見張っているようだ。
もしくは見間違いで、単なる置物の影かもしれない。
その寺は、建物の外に出ないと便所にもいけない。緊張と寒さで、尿意が限界だった彼は、お経を大声で唱えながら出ることにして、勢いよく障子を開けた。
(行くぞ! もう誰がいてもいい! 漏らして恥をかくよりいい!)
開けたとたん、ぶわっと何かが廊下の向こうへ跳んだ。
大きな蜘蛛のようにカサカサッ、と。しかし、顔はこっちを向いていた。人間のそれだ。
人間が四つん這いで這っている、しかも無数の手足が生えている。。
「うわ!」
つい声を上げてしまった。
その蜘蛛みたいな人間は廊下の先に走っていった。そして柱に登り、一瞬で見えなくなってしまった。後は何も起きず、彼は障子を開けたことが良かったのかと勝手に思っていた。
そして3日ほど経った日の夜のことだった。
寝所は、普段はだいたい5人位の修行者が寝泊まりしている。その日は、たまたま彼しかいなかった。だが、その部屋に入ったとたん、何か人がいる気配を感じた。
重苦しい空気の中、何も考えまいとお経を唱えて寝床に入った。
すると気づいた。寝ている布団が少しずつ部屋の奥の方にずらされていく。
ズル、ズルズルズルズル……
誰かが布団の端を握って部屋の奥の暗闇に誘導している……。あまりの力に彼はくじけそうになってお経を止めた。
すると急激な耳鳴りが始まった。キイーンという高音で自分のお経が聞こえなくなるくらい、耳の中で響いた。耳が痛くて耐えられない。そして、はっきりと耳の横で聞こえた。
「失礼します。入ります」
という男の声が耳に鳴り響いた。そして何か黒い物体が自分の布団に入り込んできた。
明らかに何者かが自分の身体に入ろうとしている。
黒い影が次第に伊藤さんの身体にのしかかってきた。全身が金縛りにかかってしまい身動きが取れないが、とにかく動かせる手足の指を集中して動かすよう脳から命令を出し、口は動かなくても頭でお経を唱えた。だが、もうそんなものは効かない様子だった。
体がぐいぐいと暗闇に持って行かれる。なのに、思い出すのは母の顔、父の顔だった。
「困ります!」
ようやく言葉が口から出た。お経以外はダメだと言われたが、霊に入って来られたら困るので、思った言葉だけが音になった。
黒い影の動きが止まった気がした。だが、影は大きな網のように広がり、布団ごと彼を襲ってきた。もうだめだ、僕はこのまま殺されてしまう! と思った時だった。
すると、障子をガラッと開ける音がして、和尚が数珠を持って立っていた。見渡したが、部屋の中には何もいなかった。
彼はすぐ風呂に入れられ、体を塩で清めた後、白い着物を着付けられた。和尚たち僧侶と祈りの儀式をしたあと、その日からは別の大部屋で寝ることになった。和尚が言うには、
「お前が言葉を吐いたのが聞こえたからすぐ行ったんだ。それだけだ」
と、なぜあの時入ってきたかは詳しくは言わなかった。
しかし、彼の目を見て和尚は言った。
「だが、お前にはいつかわかるだろうから言っておく。大人は身勝手でな。お前に教えてくれたことを真に受けて失敗したことを、お前を恨むことで晴らそうとしている。そんな悪霊がお前にはたくさん憑いている。詐欺師だとか相当ワルい人間に恨まれているようだ。その人間は生霊となってお前に憑いている。自分に憑いている霊は見えなかっただろう」
「僕に……憑いている霊……」
「お前を最初に見た時、そうだなあ、10本くらいの手足が体のあちこちから出ていたんだ。これはいかんと思ってお前に修行をさせた。だが、もう大丈夫だ。荒療治だったがな。人間は見えることを自分で封印することもできる」
「手足が……僕が見た人もそんな形でした。蜘蛛みたいに四つん這いで這っていて……」
「そうだろうな。それはお前のこれから先の姿を見せに来たんだろう」
少年はそれ以来霊を見たり、未来を当てたりすることができなくなった。
1年ほどの修業の後、やっと親元に戻る事になった。和尚は家に一緒に行き、彼の親にこう話した。
「この子はあのままだったら邪気で苦しみ、長く生きられなかっただろう」
「……そうですか。これからも用心します。もう私達の心を読んだりしないでしょうか?」
その時ばかりは、和尚は棒を床に打ち付けて怒った。
彼も両親も驚いた。
「用心? わが子に用心とは何だ! そもそも、この子にひどい邪気を与えたのはあなた方だろう!? 霊力で金を儲けようなどするから、この家に邪気が蔓延したのだ! これからはそういう力は人の為に使うようにせよ。どんな子供も同じ。親がしっかり抱きしめて育てなさい」
和尚さんの目を剥いたような形相と剣幕に両親はたじろいだ。
「わかりました。すみませんでした」
両親は和尚に深く頭を下げた。
そして、あどけなく2人を見つめるわが子を、しっかりと抱きしめた。
そうして、彼の霊力は抑えられ、普通の暮らしができるまでになった。
その後、成人してからは気功の先生となり、霊力は人のために使うことになった。それから日本は戦争の時代へと進んだ。
暗い時代もあったが、心が病んだ人の治療をしたり、よくない霊を払ったり、それでもお金は一切取らなかった。
彼は長生きして皆に惜しまれつつ、この世を去った。
この『サトリ』は実在の人物である。
「失礼します。入ります」
生前、彼はこの言葉だけは嫌がり、部下にも部屋に入る時はノックだけでいいと伝えていた。
そして誰でも入れるように、いつもドアを開けっぱなしにしていたという。