下山事件と血塗られたD51(茨城県土浦市) | コワイハナシ47

下山事件と血塗られたD51(茨城県土浦市)

昭和18年10月26日、土浦駅構内で起きた貨物列車と客車の三重事故で死者100名以上、重軽傷多数の大参事が起きた。当時は戦時下でもあり、この事故自体は報道規制のため当時の茨城の新聞のほんの片隅に掲載されただけであった。また、車両が桜川に落ちたため、水死者も多かったのだ。黒焦げの遺体や客車から無理に引き出したため、腕がもげた人、足の骨が出て歩けない人など、川べりに並べられてうめき声が響いていた。体の一部がちぎれるなど、大けがを負った人も簡単なむしろに寝かせられ、むしろの上布団で覆われた程度に置かれた状態だったという。辺り一面血の海であった。

その時の事故の機関車が『D51 651』であった。いわゆる機関車デゴイチである。この機関車にはいわくがあった。車体番号の651から(むごい)と呼ばれ、このデゴイチには多くの怨霊が憑いていると内部でも噂があった。

ある機関士Tの話である。

戦争が終わり、国鉄の大リストラの時代がやってきた。アメリカの進駐軍「GHQ」 にほだされ全国の鉄道員を何万人と首切りしなければならないと最終通告が来ていたのだ。当時の国鉄総裁の下山定則氏は日々悩み抜いていた。

茨城の機関士達もその話は聞いていた。仙台で機関長をしていた下山さんが上司だったと仲間が話していたのだ。下山さんはとてもまじめな人で明るくて、とにかく汽車が大好きだった。部下にもよくしていた。そんな人が今や自分達の仲間を辞めさせなくてはいけない状態になっていた。日々、Tさん達はいつ首を切られるのか心配だった。

ストレスのせいか、Tは精神的におかしくなるときがあった。常磐線の事故の後、土浦の事故現場の線路に差し掛かる頃に、それは起こる。

「ギャー!」

という悲鳴が聞こえるというのだった。

そして見ると、橋の上に何人もの人が座ってこっちを見ている。うわ! っと思っていると、人々はどんどん増えていくのだった。

モンペを着た婦人やカーキ色の国民服を着た年齢不詳の男たち。小学生くらいの子供、農家の老人。みんな顔が真っ黒で目だけが光っている。

体のほとんどが血と泥と石で轢かれたような大きな傷がついている。よく見かける轢死体と同じくあちこちの肉が洋服から飛び出ていた。顔が真っ黒なのだけが救いだった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

見える度に怯えてTは頭を下げて謝る。しかし彼は気づいた。この連中は座ってるんじゃない。上半身だけしかないものが鉄橋の欄干に並んでいるのだ。胴から下が無い人々なのだ。何度もその上半身の人間たちが汽車に乗り込もうと襲ってくる。ふわりと飛んでは、窓から入ろうとするのだ。

「やめろ、やめてくれ!」

叫び声は汽車の轟音にかき消されるが、手を振りまわすTの姿は異様であった。乗客も誰もそんな人々を見ていないからだ。

そんなことが多発してからは、Tは機関士を辞めて、国鉄の内務作業をすることになった。だが他の機関士たちも同じようなものを見たと言って、体調を崩すようになった。ある時から、それは事故を起こした当時の車両に霊が憑いているのではないかという噂が立った。だが特にお払いをしたとは聞いていない。土浦駅にある木の棒に慰霊碑と書いたものに手を合わせるしか術がなかった。日本は敗戦直後の占領下で、当時はとても貧しかったのだ。

茨城と東京を繋ぐ常磐線は、北千住を通って土浦に入る。ところがまたこのD51に噂が立つ。

D51の整備をして車庫に入れる時、黒い人影が見えるというのだ。

それは黒いコートを着た中年の男だという噂があった。

しかも複数の人影が見えると聞いて、「またか」と思う連中も多かったのは否めない。きっと土浦での事故車両だから……と。

機関士が灯りを向けると、その影はすっと消えるという。

「やはりお祓いをした方がいいのではないか」

「うむ、しばらく様子をみよう」

とはいえ、毎日毎晩貨物列車は走り続ける。その噂はTの耳にも入った。何も起きなければいいがと胸騒ぎがしていた。

7月6日、貨物列車を牽引したD51の651号機は田端を8分遅れで発車した。

運転していた機関士が北千住から綾瀬に向かう東武線と交差する線路で、車両が何かを踏んだのを感じたという。

「誰かいる、轢いてしまった」

最初はそういう状況だった。とにかく白い肉が見える。女性を轢いたと思ったそうだ。しかし、それは前日から消息を絶った国鉄の下山総裁の変わり果てた姿だった。

土浦の事故からおよそ5年以上経った出来事だった。

歴史に残る謎の事件、「下山事件」である。遺体は無残にも粉々に飛び散り、顔はお面のように剥がれて線路脇に落ちていた。線路に寝かされていたのか、立ったまま飛び込んだのか、検死の結果、判断がつきかねてしまった。

それほどに何もかもバラバラの遺体だったのだ。

そしてその後、この事故現場である人物を見かけるようになる。

雨の日になると、黒いコートを着た男が、フラフラと常磐線の線路に現れると言うのだ。

「危ない!」

毎回運転手が急ブレーキをかけるが、間に合わず轢いてしまう。

慌てて線路に出ると、轢いたはずの遺体がない。

ふと脇を見ると、またその男がフラフラと歩きだすのだそうだ。

「毎回轢かれる男がいる」

国鉄の仲間の間でも、その話がもちきりになった。もちろん、それは下山総裁の霊だと内々で語られることになる。

下山総裁を轢いた機関士は、その後に急死した。よりによって仙台での下山氏の部下だったのだ。事件の日から心神喪失になっていたと報じられた。

今は下山総裁の遺体の肉片が飛び散ったといわれる辺りに慰霊碑がある。ここで深夜に作業をしていた作業員も、不思議なスーツ姿の男性を見かけたという情報もある。それは昭和24年から見かけられていた黒いコートの男なのかもしれない。

その後、三鷹事件、松川事件と不気味な無人暴走事故や脱線事故が起こる。

人々が命を落とした原因は汽車であることは間違いないが、それを動かした人間はまだ捕まらないままなのだ。

この651号機は何度も事件の後に現場検証されたが、やはり謎のまま終わった。

そして、この機関車はその後も活躍した。水戸、そして熊本も走った。

最後は伯備線の新見機関区に最終配置となった。

その後の鉄道事故については詳細な記録がないのでわからないが、時代の波に飲まれ、ひっそりと機関車人生の幕を閉じたという。

呪われたD51 651(むごい)の運命もそこで終わってしまった。

余談であるが、このD51 651は茨城が誇る日立製作所製であった。

平成29年に東武線で復活し走り出したSLC11 207「大樹」もまたそうである。

時を越えて黒い顔のSLが活躍していること、そして新幹線、リニアと産業が進化し続けてきたこと。日本の鉄道技術は世界一となった。

下山国鉄総裁は、日本の鉄道の未来に何を思っていただろうか。

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