人骨の叫び──戸山公園の怪三(東京都新宿区) | コワイハナシ47

人骨の叫び──戸山公園の怪三(東京都新宿区)

一八七三年(明治六)、戸山山荘跡地である戸山ヶ原に陸軍戸山学校が開かれた。それから第二次大戦が終わるまで、帝国陸軍が一貫して土地を使用し続けた。

一九二九年(昭和四)には当時の麹町区にあった陸軍軍医学校が移転してきて、その三年後の一九三二年、後に悪名を轟かす、とある人物が総括する部署が新設された。

その人物とは、かの〈七三一部隊〉創設者・石井四郎で、彼が創った部署は陸軍軍医学校防疫部・防疫研究室。年号に直せば昭和七年のことである。

石井四郎と〈七三一部隊〉こと関東軍防疫給水部本部(満州国第七三一部隊)の名を世間に知らしめたのは、森村誠一氏の作「悪魔の飽食」シリーズだろう。

同作品の初出は一九八一年(昭和五六)の「しんぶん赤旗」で、後に複数の出版社が書籍化したが、掲載写真に偽物が混入していたことが発覚、回収騒ぎが起こるなどし、内容の信憑性については議論の余地がある。

しかし〈七三一部隊〉が細菌戦研究のために人体実験をしていたことを完全に否定する歴史学者は存在しない。悪魔のような人物だったかどうかはさておいて、医学博士であり最終階級は陸軍軍医中将だった石井四郎が〈七三一部隊〉を創設し、細菌兵器研究の指揮を執ったことは事実なのだ。

石井四郎が〈七三一部隊〉に先駆けて、同部隊とほとんど同じ研究を手掛ける機関を戸山ヶ原に創ったことは、比較的最近まで知られていなかった。

一般大衆に知られることなく研究は続けられ、そして一九四五年(昭和二〇)五月二五日、山手大空襲で戸山ヶ原一帯は焼きつくされた。

終戦からおよそ四四年の月日が過ぎた、一九八九年。

昭和の終焉、平成元年でもあるこの年、品川区にあった厚生省の予防衛生研究所庁舎が戸山公園の隣接地に移転することになった。厚生省(当時)・予防衛生研究所の初代所長が〈七三一部隊〉出身者だったのは、偶然であるにしても皮肉が効きすぎていた。さらに建設工事が始まって間もなく多数の人骨が出土するに至っては、運命の皮肉を通り越して因縁めく。

掘り出された人骨は一〇〇体分を優に超えた。首が失われた遺体も多く、頭蓋骨は六二個が発見されたのみだったが、その多くに、ドリルや鋸のこぎりによる切創や刺創など、明らかに人為的につけられた──人体実験を思わせる傷痕があることが確認された。

そのうえ、ダメ押しのように、どの遺体も死後数十年以上一〇〇年未満のもので、モンゴロイド系の複数の人種が混在していたとなっては、捕虜を用いた残虐きわまる人体実験を想像するなという方が無理だった。

しかも時は七月。東京では新盆といって七月一五日にお盆を行う風習があるのだ。

昭和天皇が崩御されても昭和時代を忘れるべからず……と恨みを抱いて亡くなった犠牲者の霊の仕業かと思った人もいたことだろう。

事件後、次第に戸山公園一帯は心霊スポットとしてよく知られるようになった。前々から「人魂を見た」といった怪奇現象の目撃談はあったようだが、あいまいな噂に確かな裏づけが与えられたわけである。

「夜になると、どこからともなく泣き叫ぶ声や呻うめき声が聞こえてくる」

「一、二、三……と数を数える声がする」

やがて、このような、軍隊による血なまぐさい人体実験を連想させる怪異が数多く報告されるようになった。

一方、旧帝国陸軍の戦争犯罪に目を向けて問題意識を新たにしたグループもあった。〈軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会〉もその一つだ。この会に対して、旧陸軍軍医学校で看護師を務めていた当時八四歳の女性が名乗り出て、「進駐軍に見つからないように人体標本を三ヶ所に埋めた」と証言したことがあった。

二〇〇六年(平成一八)のことで、「朝日新聞」(東京版・夕刊)に掲載された記事によると、女性は「半世紀以上が経ち、当時のことを知る人も少なくなった。自分の目で見て、実行したことだけを〈人骨問題を究明する会〉の方に話しました(原文ママ)」と語った。

予防衛生研究所は一九九七年(平成九)に国立感染症研究所に改名した。同研究所の敷地内には人骨の保管施設が設けられ、現在も骨の由来調査が続けられている。

しかし未だに骨の主たちの生前の名前も顔もわかっておらず、幽霊の噂は絶えることなく囁かれつづけている。人体実験は本当に行われたのだろうか。一〇〇体以上の遺骨は確かにあった。埋められていた人々はどこの誰なのか──戸山公園一帯で起こる霊現象は、「忘れることは許さない」という彼らの叫びなのかもしれない。

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