墓地の掃苔家 清澄白河浄苑(東京都江東区) | コワイハナシ47

墓地の掃苔家 清澄白河浄苑(東京都江東区)

怪談や奇譚を書くようになってから近しくなった人たちの中でも、近世・近代に関する知識の豊富さと研究熱心なことで尊敬している木林さんは、二〇一一年(平成二三)に、それまで二七年間勤めてきた大手広告代理店の映像制作をする子会社を早期退職して、念願の文筆業に入られた。

とはいえ退職後ただちに忙しなく書きまくるつもりはなく、最初の一年間ぐらいは調査と研究にあてようと考えた。作家としての木林さんの得意とする分野は「幕末から明治の頃の写真師」で、サラリーマン時代から研究を重ねてきたが、亡くなった写真師たちの墓所を訪ね歩くうちに、墓に眠るその他のさまざまな故人についても、興味半分ではない深い関心を抱くようになっていた。

木林さんのような人のことを「掃苔家」と呼ぶ。

彼が早期退職する前年の二〇一〇年頃、歴史的人物や著名人の墓を巡って、故人の足跡に想いをはせることを趣味とする通称「墓マイラー」の存在がひそかなブームになっているとして、マスメディアの注目を集めた。

先人の墓所を訪ねあてて苔払いをする「掃苔」は江戸時代から続く風雅な趣味だ。この趣味人を「掃苔家」、記録物を「掃苔録」という。「墓マイラー」は「掃苔家」を現代的に解釈し直したものであり、写真師を研究しながら明治期以降に出された「掃苔録」をいくつも読み、墓所を訪ねていた木林さんはブームの先駆者と言えなくもない。

二〇一一年、梅雨曇りのある日、木林さんは江東区の寺町を探訪していた。

寺町は日本全国の城下町にあり、一説によると宗教施設を都市の外縁に盾として配置し、物理的および霊的な敵の侵入を防ぐ目的を帯びていたそうだ。

江東区の寺町は、白河、三好、平野、深川、清澄と区内の五町にまたがり、東西は三つ目通りから清澄通りまで、南北は葛西橋通りから清洲橋通りまで。このおよそ一平方キロメートルの中に四〇以上の寺院が存在し、霊園がある。

木林さんは、まずはこの界隈の寺町を代表する寺院の一つ、「浄心寺」を訪れた。浄心寺は一六五八年(万治元年)に創建された古刹で、四代将軍徳川家綱の乳母で当寺の建立を申し出た三沢の局の墓や、歌舞伎役者の初代坂東彦三郎が寄進した石灯籠など、歴史上の人物縁の文化財を多数有する。

境内の墓石を観察して歩くうち、正午を過ぎた頃に、木林さんは自分の他にも掃苔家、もしくは墓マイラーが来ていることに気づいた。

「黒っぽい服装をした若い男でした。歩き方を見て、すぐに同好の士だと直感しました」

体つきから推してせいぜい二二、三歳の青年で、黒い野球帽を被り、黒いリュックサックを背負っていたが、外見に強い個性は感じられなかった。

木林さんの目を惹いたのは、自分と同じ「掃苔家」特有の墓地での行動パターンだ。

「普通の墓参者は目的が決まっているので墓地の中ではスタスタ歩きますが、同好の士はゆっくり移動するんです」

しかもその日の木林さんは、墓地の端から順にしらみ潰しに墓石をチェックする「ローラー」を決行していた。

「ひとつひとつ、お墓の写真を撮ったりメモを取ったりするので、一回『ローラー』すれば、その墓地のどこにどんなお墓があるか、わかるようになります」

気になる墓石は前後左右その他、トータルで六枚ぐらい写真を撮るそうなので、ローラー作業中の移動速度はどうしたって遅くなる。

「でも、その男は僕と同じスピードで歩いていました。ときどき彼が視界の隅に入るんですよ。墓石と墓石の隙間からチラチラ見え隠れしていました。若くて同じ趣味の奴は珍しいから、なんだか嬉しくなりました。それに、その日は平日だったから彼は自由業の奴なんじゃないか、もしかすると作家かもしれない……なあんて興味を持ったんです」

やがて木林さんは浄心寺のローラーを終え、次の霊園へ向かった。話を聞いて私は墓石を一つずつ調べていては日が暮れてしまうだろうと思ったが、木林さんによるとその通りで、複数の霊園を巡ろうと思えば余計なことをしている暇はないそうだ。

「この日、僕は浄心寺の他に共同墓地などもチェックする計画を立てていました。さっきの若い奴と名刺交換したいなぁとちょっと思ったんですが、急がなければ計画が頓とん挫ざしてしまいます。お寺は五時までに門を閉めてしまうところが多いので」

木林さんの掃苔ルートを仮に①②③とすると、①の浄心寺が済んだ時点ですでに午後二時に迫っていた。残り三時間程度で②③を巡ろうと思うと気が急いた。

急いで②の霊園へ行ってローラーを開始した。

「そしたら、少しして、さっきの奴が隣の通路を歩いていることに気がつきました」

間違いなくあの男は同好の士だ、と木林さんは確信を深めた。同じコースを選ぶとは気が合いそうだと思い、話しかけたい衝動も覚えたが……。

「待て待て、声を掛けたりして彼に余分な時間を使わせちゃいけない、と自分を引き留めました。時間に追われているのは彼も僕と一緒のはずですからね」

やがて③の「清澄白河浄苑」に木林さんが移動すると、そこにも彼は現れた。

木林さんは「異常に気が合うなぁ。偶然かしら?」と少し不思議に感じた。

ここは寺町。霊園は数多いのである。三ヶ所とも順番まで同じようにローラーするなんて……。

「少し奇妙に感じて、初めてそいつの方をしっかり振り向いて注意して見たんですよ」

墓石に隠れて下半身は見えなかった。清澄白河浄苑は複数の寺院が共有する共同墓地で、関東大震災後に設けられてから年月を重ねて、今や墓がひしめきあっている。

私が見た感じでは、面積に対する限界を超えつつある印象で、狭い通路の両脇にみっしりと墓石が連なっていた。

「墓石と墓石の間を通る瞬間を見逃さないように目を凝らしていたら、野球帽を被った灰色の横顔がはっきり見えました。何かの比喩じゃなくて、本当にグレーでした!」

黒と白の中間色のグレーの顔に驚いて、あらためてその男の体を観察すると、モノクロ写真を切り抜いて景色に貼りつけたようだった。黒っぽい服装ではない。現実にはありえないモノトーンだ。

「こいつ幽霊だ!しかも僕にくっついてるんだ!」

木林さんは心底ゾッとした。方向転換も難しい通路の幅が急に恐ろしいものとして実感された。こんなところで正面から迫ってこられたら鉢合わせしてしまう!

「……必死で墓地から逃げ出しました。追いかけられてる気がしたけど、振り返らずに一目散に墓地から出て、清澄通りまで走りつづけました」

実は木林さんは、当時は清澄白河浄苑より東の方の江東区南みなみ砂すなに住んでいたので、西の方角の都道四六三号線の清澄通りは逆方向になる。

「わざとそうしたんです。幽霊が家までついてきたら困るから、まこうと思って」

にぎやかな清澄通りに出ても、まだ安心できなかった。人通りを求めて急ぎ足で大江戸線の清澄白河駅へ向かい、駅周辺を歩きまわった後、蕎麦屋に飛び込んだ。

蕎麦は精進料理で、修験道であれば心身から穢れを取り除く五穀断ちの修行中でも唯一口に出来る穀類(昔は蕎麦は野菜の一種と思われていたらしい)だ。もっとも木林さんは野生の勘で蕎麦屋に飛び込んだということだが。

「お蕎麦をすすっているうちに幽霊が去ってくれた感じがしてきて、食べ終わると真っ直ぐうちに帰りました。それっきり、夜になってもあいつは出てきませんでした」

このことがあって以来、木林さんは、幽霊はモノクロ写真のように見えるものだと信じている。

シェアする

フォローする