火炎地獄の女像 浄心寺(東京都江東区) | コワイハナシ47

火炎地獄の女像 浄心寺(東京都江東区)

木林さんが最後にモノクロの幽霊(と彼が信じている怪しい男)を目撃した「清澄白河浄苑」は、関東大震災後に東京市(旧東京府の府庁所在地。現東京都)の要請と指導を受けて、近在の墓を集めて造られた共同墓地だ。死者が多く出たため必要に迫られたのであり、付近一帯の震災被害は凄まじく、木林さんが最初に行った「浄心寺」には江東区最大の関東大震災の慰霊碑である「関東大震災殃死者慰霊塔」が建てられている。

この「関東大震災殃死者慰霊塔」は短い円柱状の墳墓にドームを載せた納骨堂を兼ねた「蔵魂塔」で、ドームには片膝を抱えてうずくまる裸女のレリーフが施されている。

火に追われてひれ伏している女の姿態だと言われているが、浄心寺が洲崎周辺遊廓の遊女の投げ込み寺で、「洲崎廓追善墓」と「元洲崎廓無縁精霊之供養塔」も有することを思うと、しどけない裸体の浮き彫りがにわかに意味深に思えてくる。

現在の江東区東陽一丁目から東陽三丁目交差点「洲崎橋」にかけての辺りには、第二次大戦中の一九四三年(同一八)から終戦から半年後までの期間を除き、一八八八(明治二一)から一九五八(昭和三三)まで、大歓楽街が存在した。

関東大震災の後、浄心寺の境内が臨時の火葬場とされ、他所の火葬場と比べて著しく数多い二九六〇体もの遺体が荼毘に付されたそうである。そのうちには洲崎遊廓の遊女の亡骸も少なからずあったと思われる。

一九二一年(大正一〇)には二七七軒の娼家があり、遊女二一一二人を抱かかえ、吉原に迫る規模を誇ると言われていたが、吉原と異なり洲崎遊女は公娼ではなく、立地も堀と海で逃亡を阻まれた、より苛酷な環境に置かれていたとする説がある。関東大震災の折の洲崎遊廓についての資料はとても少ない。深川界隈は地震直後から始まった火災による被害が甚大で一面焼け野原になったというから、証言する者すら残らなかったのだろうか。

『東京大空襲・戦災誌第一巻』に、逃げまどいながら「関東大震災殃死者慰霊塔」の裸像の前で一息ついた途端、鐘楼から炎が吹きおろしてきて危うく焼き殺されそうになったという一九四五年(昭和二〇)三月一〇日の東京大空襲のときの生存者の少し不思議な証言が載っている。浄心寺の霊園に逃げ込んだ人々はほとんど焼け死に、墓地の出入り口には折り重なった黒焦げの死体が山をなしたそうだ。

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