浜町スタジオの足音二(東京都中央区浜町) | コワイハナシ47

浜町スタジオの足音二(東京都中央区浜町)

浜町スタジオに響く〈足音の怪〉をきっかけにして、浜町の歴史を紐解いてみた。

「走っている人が急にパッと燃え出す。走っている姿そのままに、火の塊かたまりとなって倒れてゆく」(『東京大空襲・戦災誌第一巻』より)。

「日本橋区浜町にあった明治座は歌舞伎や芝居の殿堂だった。警防団の人たちが明治座の隣に立っていた倉庫の扉を開けようとしているところだった。(略)扉の中は、木製の茶色いマネキンが裸でぎっしりと詰まっていた。

『なんだ、マネキンか』

戻ろうとした瞬間、警防団が一体引き出すと、〝マネキン〟は口から血を吐いて寿美子さんの前にどさっと倒れた。熱風で蒸し焼きになった人間だった」(「週刊朝日」二〇一五年〈平成二七〉三月二〇日号より)

日本橋浜町の一帯は江戸時代には松平三河守をはじめ諸大名の武家屋敷が建ち並ぶ武家地だったが、明治に入り廃藩置県で社会情勢が大転換すると、花街に様変わりし「芳町」と呼ばれてにぎわった。

その後、関東大震災の折の日本橋界隈の火災により、芳町は焼き尽くされた。

日本橋区(当時)の約二万三〇〇〇世帯の焼失所帯率は九三・二パーセント。東京市中最大の被害を被った土地で、生存者の多くが隅田川に架かる橋に逃れて助かったことから、火災時の避難場所として開けた土地を確保することの重要性に為政者が気づいたと言われている。

そこで、震災後に「浜町公園」が造られたということだ。

ところが第二次大戦が始まると、陸軍がここに高射砲の陣地を置いた。軍の施設があるため浜町一帯は米軍による爆撃の標的となり、三月一〇日の東京大空襲で再び灰塵に帰することになった。

結局、震災の教訓は生かされなかった。集中的に爆撃されたことに加え、軍は民間人を高射砲陣地から締め出した。兵隊の目をかいくぐって浜町公園に潜り込めた人々もことごとく死んだ。隅田川対岸の深川の町で燃え盛った炎が猛烈な勢いで水平に川を渡って押し寄せたのだ。火の濁流が平地を舐め、逃げまどう人々は次々に倒れた。

明治座は、当時すでに鉄筋コンクリートの近代的な建物だったことが仇あだとなった。堅牢な造りから避難所の役を果たすことが周知されていたので大勢の人々が逃げ込んだのだ。しかし楽屋口から火の粉が入って屋内に火災が広がって手がつけられなくなると、気密性の高い室内はたちまち異常な高温となった。

そこで人々は扉を開けて脱出しようと駆け出したが、外に待ち受けていたのは周辺地域の長時間にわたる大規模火災によって異常な高温に熱せられた大気だった。

「それからどのようにして扉が開いたのか覚えていない。……人びとがドッと外へ飛び出した。人びとの姿がパッと炎に包まれる。バッタリと倒れたまま動かない人。そのうえに折り重なって倒れていく人」(『東京大空襲・戦災誌第一巻』より)

阿鼻叫喚の地獄絵図。外へ飛び出せば火の海に巻かれ、走りながら焼け死ぬ。かといって中に留まっても……。明治座は巨大なオーブンと化して閉じ込められた人々をじわじわと蒸し焼きにした。その数は空襲直後の警察発表では三四八名だったが、少なすぎると言って疑問視する声もあった。当時から、明治座で亡くなったのは一五〇〇人だ、いや三〇〇〇人だと諸説あり、未だに判明していない。

終戦から七〇年以上が過ぎた二〇一七年現在、浜町の河岸一帯はお盆の頃の怪談話に登場する場所の常連になりつつある。

旧東京テレビセンターと明治座、それから隅田川の岸辺や橋での心霊現象目撃例はいくつもあって、読み物としては新味に欠けるかもしれない。

近頃では、浜町公園での怪奇現象もインターネットに報告されているが、浜町公園の怪談は「無理筋だ」という意見もある。

死んだ人々がすべて幽霊として現れたなら、浜町界隈は立錐の余地がなく幽霊に埋め尽くされるはずだ。

東京大空襲全体でおよそ一〇万人もの遺体が上がった。しかし身元が判明したのは約三万人で、残り七万柱の霊は家族によって弔われることなく今に至っている。

猛火に追われて走りつづけている魂があるとしたら、あまりにも哀れだ。

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