県南部、千葉との県境の利根川近くに、林の中に囲まれた「國王神社」がある。
社務所の前が広場のようになっていて、周りは高い木々が生い茂っている。子供の頃はここがどういう人を祀った神社かもわからずに遊びにきていた。境内も木が生い茂っていて、何となく他の神社とは一線を画した荘厳な雰囲気があった。
今は千葉に住んでいる加奈子さんの話だ。
彼女はこの境内に、幼馴染の杏果とよく遊びに来ていた。
加奈子さんは体が弱く、学校を休みがちだったから、一緒にいてくれる杏果さんが大好きだった。お互い親友と思っていた。
遊んだ後はここでお参り。古めかしい藁屋根の社に手を合わせると、なんだか心が澄んでいくような気がしていた。
お参りする内容は、勉強ができますように、もっと体が丈夫になりますように、そして好きな男の子とうまくいきますように、そんな内容だった。
拝んだあと顔を上げると、いつものように杏果がずっと手を合わせたまま祈り続けていた。
「杏果、いつも何を願ってるんだ?」
「うふふ。内緒。言うと願いが叶わなくなるから言わねえよ」
と勿体ぶって拝む内容は言ってくれなかった。
でも、神社の霊気というか鬱蒼とした木々に囲まれるせいか、夕方まで境内で遊んだ後は必ず体調を崩し、2、3日休まないと学校に行けないほどだった。
「加奈が早く治りますように、って神社で拝んできたよ〜」
杏果はそう言って、学校を休んだ時はプリントをたくさん持ってきてくれた。ある日、加奈子さんの好きな男の子がお見舞いを持ってきてくれた。彼も加奈子さんのことが気になっていたようで、そこで告白された。嬉しくて嬉しくて、その日の事を日記に書いた。
次の日、杏果さんがまたプリントを持って来てくれた。
「杏果聞いて〜。昨日さあ○○君が来て、告られたんだあ」
杏果さんはとても喜んでくれた。
「うん、そんでそんで? 2人は付き合うの?」
「うん、そういうことになっちゃった。いつも神社でお願いしてたから、願いが叶ったんだね。でも、病気の方は全然治らないよ……こっちの方は願いが聞かないみたい」
「そう……でも、私も神社で加奈が治るようお参りしてるから、きっと大丈夫!」
「いつもありがとうね、杏果」
「加奈のためだもん。ほらあ、小さいときから約束してたじゃん」
「何の約束?」
「死ぬときは一緒だよって」
その言葉を聞いて、加奈子さんは黙った。そんなこと言ったかな? 幼稚園くらいまでは加奈子さんはとても元気で、走り回っているような子だった。クラスでもとても目立っていて女ガキ大将みたいだった。杏果はとてもおとなしく、友達もあまりいなかった。2人は正反対の性格だったが、不思議と気が合って一緒に遊ぶようになっていた。
「あのときも、いじめられていたのを助けてくれたし」
助けたつもりはないけれど、人気者だった加奈子さんが一緒にいてくれるだけで、杏果にとってはありがたかったのだろう。
「だから、加奈が昔みたいに元気になってくれねえと、私寂しいんだあ……」
「そっか。学校で何かあったのか?」
「ううん。何もねえけど、加奈がいるのといないのとじゃ違うよ」
少しうつむいた顔に陰りがあった。加奈さんは生来明るい体質なので、
「もうすぐ元気に登校するから、それまで待っててな!」
「うん!」
それから1週間経ち、少し元気になった加奈子さんは國王神社の境内にお参りにやってきた。いつも杏果と2人で行くので、1人で行くのは初めてだった。
江戸時代から所在するという社殿は、何か人を呼ぶような雰囲気がある。1人でいると背筋がゾクゾクするような緊張感があった。
社殿の奥にも社が続いている。その奥まで行くことはほとんどなかったが、何となく興味が湧いて進んでみた。奥に何か紙が落ちていた。拾って中を覗いてみた。
鳥居のマークがあり、人の形をした絵が描いてあった。
心臓の部分をペンで突き刺したような跡があった。そして首をちょん切ったように紙が割かれていた。その下に『やくびょうがみ』と書いてあった。
「ひいっ!」
加奈子さんは紙を元の場所に丸めて捨てた。誰かが誰かを恨んで、人型の呪いをかけたものだった。誰がこんなことを……。「やくびょうがみ」? 疫病神って災いを運ぶ悪霊だよね……。
さっと黒い影みたいなものが目の前を横切った。
慌ててそこを出て境内を歩いていると、自分の足音以外の足音が後ろから響く。もちろん境内には加奈子さんしかいないとわかっているのに、誰かがヒタヒタと後ろからついてきている音がするのだ。
紙の人形の霊? 気持ち悪くなって走って神社を出た。
動悸が激しくなり、また次の日も学校を休んだ。
その晩、付き合ったばかりの彼から電話が来た。
「大丈夫か……あのさ、俺、加奈子と付き合ってる事が親にばれちゃって、結構反対されたんだ。あんまり学校来てねえし、ごめん。また友達に戻れないか?」
「そんな……でも仕方ないよね。わかった……」
嫌なことが続く。父が事業に失敗し不渡りを出したとかで、抵当に入っていた家を譲らねばならず、引っ越ししなくてはならなくなった。先生にも事情を言い、クラスにも挨拶しないまま、夜逃げの様に出なければならない状況だった。
「この家、呪われているのかねえ。疫病神でもいるんじゃないかい?」
祖母がぼそりと言った。加奈子さんはあの呪いの人形の紙を思い出したが、言うのをやめた。あれからずっと神社の黒い影が自分につきまとっている感覚があった。
疫病神は私に憑いたのかもしれない。家族にばれたら自分は置いていかれる。恐怖で黙っていた。
家を移ってからは随分体調も良くなり、父親も別の仕事が軌道に乗ったようで、家族4人やっと安定した暮らしができるようになった。
「やっぱりあの家には疫病神がいたんだよ。屋移りしてよかったなあ」
祖母も新しい環境での老人会など、楽しい生活を送っていた。
引っ越して10年近く。加奈子さんはもう大学生になっていた。
セミがうるさい夏の日の事だった。
「前住んでたところ、行ってみようかな。杏果にも全然会えてないし。どうしてんだろ」
と母親に言ってみた。母親はしばらく黙っていたが、戸棚から手紙を出してきた。お悔やみの黒縁のはがきだった。杏果の名前が載っていた。
「言ってなかったんだけどね、杏果ちゃん、あれから事故で亡くなったのよ。私達が引っ越してから半年位の頃だったかな。加奈子が体調崩すといけないから見せなかったのよ」
加奈子さんはその手紙を見て、涙があふれた。
「なんで言ってくれなかったの。せめてお葬式くらい行きたかったのに、親友だったんだよ! お母さんも知ってたじゃない! 今からでもお墓参りに行く!」
駄々っ子の様に加奈子さんは泣きじゃくった。家の事情で転居し、慣れない環境でやっと自分の居場所が確立できた頃だったからだろうか。妙に郷里を懐かしく感じたのもあった。
母親はある本を渡してくれた。それは杏果の日記帳だった。
「これ、杏果ちゃんの遺品。自分が死んだら加奈子に渡してくれって親御さんに言ってたんだって。これを読めばきっと加奈子への思いがわかるわ」
「わかった。読んでみる……」
加奈子さんは泣きながら日記を開いた。一番最初の文を読んだ。
『加奈子死ね 死ね 死ね 死ね 死ね 死ね 死ね 死ね……』
目を見張った。そこには自分の事を罵倒した文章しかなかった。
『早く加奈子が死にますように、今日も神社でお願いしてきた』
『○○君は私のもの。加奈子になんか渡さない。明日取りかえす』
そしてあの紙の人形と同じ絵が書いてあり、首と心臓に赤いボールペンでギシギシに削られるほどの跡があった。人気者だった加奈子をとにかく恨んでいたようだった。
加奈子さんは茫然と立ち尽くした。
杏果が神社で祈っていたことは、「加奈子が早く死にますように」だったのだ。
「こ、これは……」
加奈子さんは言葉を失った。最後のページに書いてあった。
『これ読んだら死にたくなったでしょ? 加奈子。早くこっちへおいで 天国の杏果より』
怖くなってパタンと日記を閉じた。
「お、お母さん、杏果って……どんな事故で亡くなったの?」
震える声で聞いた。
母親は何も言わず、首を指で横に切るポーズをした。母のその目は光を失っていた。
杏果は首を自分で切ったのか、それとも事故で首が切れたのか。それ以上はもう母親には聞けなかった。ここに何が書いてあるか、とても教えられない。
「死ぬときは一緒だよ」
声が耳の奥で響き、消えていった。疫病神は相手が弱り倒れるまでそばにいるという。そして憑りつく相手が消えると、自ら闇に姿を消してしまう。
母親がしっかりとした声で、加奈子さんの肩を抱いて言った。
「ごめんなさい。お母さん、その日記をもらった時、中身を読んでしまったの」
「……そう……びっくりしたでしょ?」
「ううん。杏果ちゃんの考えてる事くらい、お母さんにはわかってた。子供が考えることなんてすぐわかるの。だから引っ越してよかったのよ。それ捨ててきなさい。そんなもの持っていたら、疫病神がまた……」
「うん。そうする」
母親は無表情のまま台所に戻り、ザクっとスイカを包丁で切った。まあるい赤い果実の断面から果汁がしたたり落ちた。加奈子さんは黙ってそれが刻まれて行くのを見つめた。
加奈子さんは、その日記を公園のゴミ箱に捨てた。
日常にある不幸には、誰かの命がけの呪いや祟りがかけられていると、知った日だった。
時として、正義は謀反ととらえられることがある。
特に人望があり、生気に満ち溢れた大将には、都の腕っぷしの弱い連中には脅威であっただろう。乱とは一体何であったのか。今もなお将門を称える人々は多い。
ひっそりとした林の中の國王神社は、猛々しい威厳を保ったまま静寂と共にある。
そこに怒りや呪いはなく、荒ぶる神々が将門に会いに遊びに来ているかのようだ。
それでも無念の霊魂は人々の呪いや恨みを飲み込むかのように佇んでいる。