東京の大手出版社で10年ほど週刊誌の記者をしていた志垣さんという女性がいた。事件があればすぐに取材に行き、精力的に働いていた。
だが、もう35歳。そろそろ結婚しないと……、と親から言われ焦ってもいた。
志垣さんには一応、恋人がいた。インターネットの出会い系サイトで見つけた彼氏だった。
会ってすぐ意気投合し、色々と相性がいい。早く結婚を決めたいとも思っていた。
一応、というのは彼女がお付き合いしていたのは、その彼が1人だけではなかったからだ。
彼は茨城のどこかに住んでいた。名前はD。それしか情報がない。
ある日、久しぶりにDの案内で霞が浦の眺めが良い場所にデートに行くことになった。
霞ヶ浦はまるで海のような広さを誇る。琵琶湖も大きくて、向こう岸が見えないのと湖畔の周りが山に囲まれているので圧迫感があるが、霞ヶ浦は広大な田園風景の中に突然現れた海というイメージ。ただ、夜になると、どこに湖があるのかわかりにくい気がした。間違って落ちる人も多いというのもわかる。
ドライブしているうちに、何となく気分が悪くなってきた。隣のDは何か探すように道をぐんぐん進む。湖畔の一本道は離合できないくらい細い。
駐車場になりそうな場所を探しているのだろうか。
美浦村の辺りを通りかかった頃だった。
「ここは馬のトレーニングセンターがあって、馬1頭につき1台のバスがあるんだよ」
Dは穏やかにこの辺りの説明を始めた。この地域に詳しいようだった。
「ふーん……、何か向こうの茂みに白いもやみたいなのがあるんだけど、何かな?」
「あっちは……、わかんねえな」
志垣さんは少し霊感があり、土地の念などを感知することがある。奥の茂みからどうも悲しいような辛いような、しかし、ものすごい怨念が白いもやとなって出ているように見える。
「え? どこ……、あそこは……。うん、広い道もないし、行かない方がいいよ」
「そうだね……、何だか悲しい怨念がありそうな気がしたのよ」
Dはちらりと志垣さんを見た。
「……。あの辺り、前に殺人事件とかあったから。それに、この辺りは亡くなってる人も多いだろうし、水辺は間違って落っこちる人もいるし、だいぶ……」
そういうと志垣さんは思い出した。この辺りに来たことがある。
「殺人事件……、あ、そういえば前に取材に来たことあったかも……」
「……、そうか、君は記者やってたんだよなあ。もう行こう」
そういって車をUターンさせて戻った。その日は近くの安いホテルに泊まる事になっていて、2人のいつも通りのデートだった。
普段よりDの口数が少ないのは気になったが、
(もう、この彼とも潮時かな……。私と結婚する気もなさそうだし)
と思っていた。
その日の夜、事件は起きた。
ホテルのベッドで心地よく夜を過ごしていた時だった。志垣さんはうとうとしていた。
窓ガラスを「コンコン」と叩く音がする。外の風が強くて、そういう音が鳴るんだろうか。隣のDのいる方を向くと、誰もいない。
目が冴えてしまい、志垣さんは起き上がった。
すると……。
洗面台の方から、じっとこの部屋を見ている人がいる。
髪が肩下くらいまで伸びた女性、全身がびっしょり濡れている。
洋服もボロボロ、いや破れまくっているのか……。それにしてもひどい格好だ。
志垣さんは声を出せず、女性を震えながらじっと見ていた。
その女も動かずじっと見ている、いや、ただ立っているんじゃない、少しずつ近づいてきている。足は? 足はある。ヒタ、ヒタ、と足跡も見える。
どうしよう? でも、体が金縛りに遭ってしまったようで、全く身動きが取れない。
明らかにこちらへ向かって歩いてきている……。怖い!
その時だった。ぐいっと肩を強く掴まれた。
志垣さんは飛び上がって叫んだ。
「キャー!」
振り向くと、Dがカッと目を開いていた。
今まで見たこともない顔つき、目が完全に据わっていて、まばたきが全くない。
つまり目が完全にイっている。
「今、女の人が……」
「何言ってんだ? お前、さっきからずっと寝言がうるせえんだよ! 起こされた身になれよ! それと、これ何だ!? ああ!? 俺を裏切りやがって!」
「え……? な、何のこと?」
Dは志垣さんの腕を取ると、有無を言わさずにベッドに押し倒した。
「殺すぞ、お前」
Dの手を見ると、志垣さんのスマホがあった。
どうやら志垣さんが他の彼氏と連絡を取っているのを見られたようだった。
不用心にもスマホの画面ロックをせずに寝てしまったのだ。
別の男性とのデートの約束から何から全部、寝ている間に見られたのだろう。
(終わった……)
志垣さんは思った。だけど、この泥仕合は簡単に終わりそうにもない。
Dは本気で殺す雰囲気で志垣さんの上に馬乗りになっている。
志垣さんは怖いながらも、とぼけて叫んだ。
「こ、殺す? 何でよ?」
「メール見たよ。俺以外の男と寝てんだろ? 俺はそれやったら殺すって言ってたよなあ!?」
Dは元々、普段は優しいがベッドの上では強気だった。相手を罵りながら性交するのが常だった。それも含めて、志垣さんには刺激的なサディスティック男だったのだが……。
今は本当に自分の人生までが、このベッドで終わりそうな雰囲気だった。
「ど、どうやって殺すのよ?」
それでも志垣さんは強気で言い張った。
「首絞めて、膣ケイレン起こさせて殺す」
「……何て? 言ったの今……」
Dの顔が狂気の人間の顔つきになった。歪んだ口元は少し笑っていた。
「そう、これがやりたかったんだよ。怒らせてくれてありがとう。俺を裏切って他の男とHしてんだから、殺られて当然だよなあ? お前もそれが望みなんだろ? エロい体しやがって誰とでもヤルんだろ? 俺にこうやって殺されたいから、わざと裏切ったんだよなあ!?」
卑猥な言葉でなぶり続けるD。志垣さんはその剣幕に圧倒されていた。小刻みに震えながら言い返した。本当はDの目を見るだけで恐怖心が倍増していく。
「し、死体は……私が死んだら死体はどこに捨てるのよ?」
Dはにやりとして言った。
「近くに大きな湖があるだろ? レイプされて投げ込まれた奴なんてたくさんいるしな。遊んでる女が殺されたって誰も同情しねえよ!」
カチャカチャとDが自分のベルトを取る音が聞こえる。Dの本能が動き出した。
一気に志垣さんの首に手をかけ、親指で強く喉元を押さえた。
うっ、息が、息ができない!
そうするうち、意識がもうろうとしてきた。こうやってこんなシケたホテルで殺され、新聞に載るのか? いや霞ヶ浦辺りで死体を投げ込まれて処理されるのか……。
もしかしてこの男、最初から私の浮気を知っていて、こんな場所に誘い出したのか? 殺すつもりで……。
志垣さんの頭はそんなことで一杯で、まだ生きる力が残っていた。
必死に抵抗すると、Dの顔の後ろに、さっきの女の顔が見えた。まだ、あの女の霊がいる。それともDに憑依してるのか?
重なるように立っていて顔が見えないが、女の髪がDの顔に絡みついている。
(助けて!)
声にならないが、その女に念を送った。
でも、この女の霊がDを動かしているのか、それなら助けてくれないかも……、志垣さんはもう一度念を送った。
(こんな所で死にたくない!)
その一瞬、Dが咳をして指の力が抜けた。
彼はゴホゴホと立て続けに咳をして自分の喉を押さえた。
志垣さんが見たのは、Dの後ろに立つ女の髪の毛が首根っこに絡みついて真っ黒になってる姿だった。
(今だ!)
志垣さんは急いで服やスマホなど、自分の荷物を持ってその部屋を出た。
半裸のまま廊下で着替えて走って外に出た。
そして二度とDには会わなかった。
だが、別の事件で真相がわかったことがあったと彼女は言う。
死ぬ瞬間に膣ケイレンが起きるのを最高に喜ぶ、特殊な性癖の連中がいる。死姦だ。息の根が止まる瞬間に膣が締まるのを異様に喜ぶ連中だ。
性犯罪や暴行死は感情のもつれでなく、単純な性欲の為に犠牲になった女性も多い。
あの時ホテルに現れた女性の霊は、こうした事件の被害者の霊であり、自分の死因を伝えにきたのではないかと志垣さんは思ったそうだ。
それとも、自分と同じ目に会えばいいとDに憑依したのだろうか。
今となっては、もう真実はわからない。
志垣さんはもう1人の恋人と結婚し、今は主婦生活を送っているが、どうしても子供には恵まれないそうだ。彼女にも彼女なりに試練がある。
これからは未解決事件を追って本を出したいと言っていた。
Dがもし連続殺人鬼であったなら……だが人を殺すのを楽しむサイコパスはこの世に確実に存在する。一生同じ性質を抱えて悶々と次の獲物を探し、それで殺した者達の霊魂をひきずりながら生きていくのだろう。