常磐線の土浦駅のすぐ近くに桜川という川が流れている。鉄橋があり、そこを列車が通るのだ。
終戦直後、波子さんとお母さんが、長く疎開していた北茨城から東京へ帰ることになり、混雑した列車に揺られていたときのことだった。
田舎の方まで米を買いに来る人々が多く、車内は混雑して、窓からも人が溢れそうな感じだったが、かろうじて波子さん親子は座ることができた。
赤ちゃんをしっかりと抱いたモンペ姿のお母さんが波子さんの前に立っていた。席を譲ろうかと思ったが、お母さんが制した。
「動かないで、座ってなさい」
「うん……でも……赤ちゃんが……」
「どんな人がきても、この席を譲ったらだめだよ。ずっと着くまで何時間も立ってなきゃいけねくなんだからね」
波子さんはしっかりうなずいた。
すると赤ちゃんを抱いたお母さんは、場所を変えたのか、いなくなった。
(どかなきゃ、どうせあの人も別の場所を探して何とかなるんだろうな)
と、幼いながらも、これから強く生きていくことを体で覚えていく頃だった。子どもながら、背中には10キロ以上の米を背負って満員電車を往復することもあった。
ちょうど桜川を渡るときだった。窓から吹き込む風が気持ち良い。
(あっ)
波子さんは窓を見て驚いた。
同じ目線に大勢の人々が列を作って歩いているのが見えた。鉄橋の上を歩いているんだろうか。川を渡る橋の上で、電車が少しスピードを落としたときのことだった。
さっきの親子も歩いていた。赤ちゃんをしっかり抱いてリュックをしょっている。復員兵、詰襟の学生、会社員、子供たちは楽しそうに追いかけっこして歩いていた。まっすぐ前だけを見て行進している。
列車の中の人たちは誰も窓の外に気付いていないのか。お母さんに波子さんは聞いた。
「お母さん、電車が混んでいるから外を歩く人もいるんだね」
「そりゃあいるよ、電車に乗れねえ人もいるんだからねえ」
「だから歩いてるんだね。ほら、さっきの人も外歩いてた」
鉄橋のふちを歩く人々を波子さんは指さした。もう列車は橋を越えたが、橋のたもとに行進していた人々が立って見ている。
奇妙に思ったお母さんが何か言おうとすると、隣の老人が答えた。
「お嬢ちゃん、さっきの橋の上に何か見えたのかい?」
「うん。たーくさんの人が渡ってた、汽車の横を一緒に歩いてたよ」
それを聞いていた周りの人たちは驚き、ガヤガヤし始めた。お母さんも
「……何言うんだい波子、人なんか歩いてねがったよ」
「歩いてたもん!」
老人は悲しい顔で言った。
「お嬢ちゃんが見たのは……本物だよ。おれの息子もここで事故にあって死んだんだ。まだ学生だったんだけども、川に落ちて、手が引きちぎれてたっぺ。まあだ、成仏できてねがったんだな」
車内はざわざわし始めた。この常磐線でそんな事故があったことなど知らない人ばかりだったからだ。お母さんも知らなかった。
「お嬢ちゃんは見えるんだなあ。おれも幽霊でええから会いてえなあ」
波子さんの頭を撫でると老人は窓の外を見た。
その後、波子さんのように鉄橋を歩く霊の行進を見る人は少なくなかったという。昭和40年、供養のために当時の駅長が立派な慰霊碑を作った後は、そうしたものを見る人は減った。
昭和18年10月26日、土浦駅構内で起きた貨物列車を含む三重事故があった。桜川の鉄橋の上で下り線客車の脱線事故が発生した。5車両のうち、2〜4車両は被害が大きく、川に投げ出された被害者の捜索は特に難航した。死者が100名を超えたという大惨事であった。
何より戦時下における病院等の人手不足から、けが人や遺体はしばらく河原に放置されるという悲惨な状況でもあった。
また報道規制によって、この事故の事は地元の新聞でさえ小さく片隅に載る程度だったので、ほとんど知られていない。