坂本九氏と笠間稲荷神社(笠間市) | コワイハナシ47

坂本九氏と笠間稲荷神社(笠間市)

昭和18年の土浦での脱線事故で、九死に一生を得た幼児がいた。彼は川崎から母親の実家のある笠間へ疎開する為に常磐線に乗っていた。

夕方の混雑した電車だった。幼児や他の子供を連れたお母さんは少しでも空いている車両に向かった。最初は1号車だったが、何かを理由に後方の5号車に移っていた。

その時、事故は起きた。土浦の桜川に差し掛かるときだった。

ドーン! という爆発音で汽車が横転するのが見えた。お母さんは子供たちを抱きしめて脱出すると、外の恐ろしい光景に唖然とした。

1号車2号車は完全に潰れ、3号車と4号車は川に落ちた。5号車だけが橋の手前で止まっていた。すぐに窓から逃げ、家族の無事を喜んだ。

目の前の悲惨な光景は、まだ2歳の幼児の目には焼き付かなかったが、このことは一生の語り草になった。

その幼児が坂本九氏である。

「笠間稲荷神社が守ってくれたんだよ」

彼はそう言われて育った。

笠間稲荷神社は「日本の三大稲荷」と言われている、地元でも有名な神社だ。

そのお守りを彼は肌身離さず付けていたという。

彼は結婚式も笠間神社で挙げるほど信仰していた。

土浦の近くには海軍予科練学校、笠間には海軍飛行隊があった。特攻隊の大元の基地である。毎日爆音でゼロ戦が飛ぶのを見ていた。そして終戦前には大空襲もあった。疎開先とはいえ、上空を飛ぶ敵機に怯え、祈る日々が続いたことだろう。

そのためだろうか、坂本氏は戦後何10年経っても、飛行機に乗るのをとても嫌がっていたという。

実は坂本氏がデビューする頃、彼のお母さんはある願掛けをしていた。

それは近所のお稲荷さんの祠だった。

九男であり、女手1つで育てた坂本氏をとても可愛がっていたお母さん。あることを引き換えにしていたのだ。雨の日も風の日もお参りする姿があったという。

「私の命を差し上げますから、九が有名になりますように」

と祈っていたのだった。それを聞いた近所の人は

「それは絶対にしちゃあなんねえ。本当にそうなっぺ」

信仰心の強いお母さんは、それほどまでに息子の夢を叶えさせたかったのだ。

ほどなくして坂本氏はデビューし超売れっ子になった。「上を向いて歩こう」はアメリカでもビルボード首位をキープしたほどの人気作になった。

だが、願いが叶った頃、お母さんは亡くなってしまった。

身代わり願掛けを止めた人たちはやっぱり……と肩を落とした。

昭和60年の8月、坂本氏は大阪での仕事のために日航機に乗るが、御巣鷹山上空で墜落し、帰らぬ人となってしまった。

凄惨な事故現場で、損傷がひどかった遺体を探すのはとても難航した。彼の遺体は胴体だけしか見つからなかったというが、胸にささった笠間稲荷神社のお守りが遺体発見の決め手となったのだ。

今も「上を向いて歩こう」は笠間市の友部駅での常磐線発着の音楽として流れている。茨城のスターは今も星となって輝いている。

そして笠間稲荷神社は、戦争当時の海軍兵達も武運をお祈りしていた場所であるそうだ。

「上を向いて歩こう」の歌詞は、まるで彼らを弔うかのようなものだ。

幼少の頃見上げていた空で散っていった飛行隊の魂と一緒に、坂本氏は佇んでおられるのかもしれない。

ところで、あなたはとても大事な夢を叶えさせたくて「何か」を引き換えにはしていないだろうか?

決して命と引き換えにしてはならない。それがわが子の事であっても。

筆者は昔どうしても大学に受かりたくて、ある事を引き換えにお百度参りをしてしまったことを思い出した。

何を引き換えに勝利を受け取ったか……。機会があれば、また今度話すとしよう。

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