神溝さんは護国寺の近くの大手出版社で、子供向けテレビ雑誌の編集をしているベテラン編集者である。その神溝さんが、まだ駆け出しだった頃の話。その頃、神溝さんは方々の編集プロダクションに出かけていっては、夜通し仕事をすることが多かった。昼間仕事をするライターから原稿を受け取って、昼間に動いている印刷所に届けるためには、どうしても編集者の活動時間帯は夜中になってしまう。決して、夜更かしの癖が付いているから、好き好んで夜中に仕事をしているというわけではないのである。
と、編集者弁護はさておき、神溝さんはその晩も護国寺の近くにある編プロの事務所で、夜を徹して仕事をしていた。
「腹減ったな」
夜中の一時を回った頃、先輩の一人が呟いた。
たまたま、買い置きのカップラーメンも底を突いていて、腹を満たすものが何もない。
「江戸川橋のほうにコンビニがありませんでしたっけ?」
その部屋にいた四人の編集者は「じゃあ、そこに散歩がてら弁当でも買いに行こう」ということになって、一緒にコンビニに向かった。
道程の途中に、不気味な小道があった。
奥のほうが軽く登り坂になっていて、登りきった坂の頂点で右に曲がっている。昼間の買い出しでも通ったことはある道なのだが、夜の顔は随分違って見えた。坂の突き当たりの角にある電柱にぽつんと点いている街灯が、やけに小さく、弱々しく光っている。
コンビニからの帰りに同じ道を通って、その坂の入り口にさしかかった。
何げなく坂の入り口から奥の電柱のほうを覗き込んだら、突然、背筋に寒気が走った。季節は夏である。辺りには風もなく、むしろ蒸し暑いくらいだった。
嫌な予感とでも言うのだろうか。闇がやたら暗く深く感じられた。
坂の入り口に立っている地名表示の木柱を見ると、「暗黒坂」という妙に不気味な名前が書いてある。振り向くと他の三人も神溝さんと同じように坂を見つめて立ち尽くしている。神溝さん自身何が見えたというわけでもないのだが、三人の先輩達の怯えた顔つきを見たとき、口から出た言葉は一つだった。
「気味悪いから早く戻りましょうよ」
三人は互いに顔を見合わせ、無言で頷くと事務所への道を急いだ。
足早に事務所に戻ったものの、誰も暗黒坂のことは口にしなかった。
そのうち先輩の一人が異変に気付いた。
「……玄関の外に、気配がする」
確かに、玄関の外でコンクリートと靴底が擦れるような音がする。
「隣の人じゃねーの?」
「バカ。隣は空き室だ。そして、この部屋より先に部屋はねェ」
足音のような気配は、玄関のドアの前をうろついているようだった。かと言って、ノックするでもなければ、声を掛けるでもない。
神溝さん達には、ドアを開けて確かめる勇気はなかった。声も立てられず、そのまましばらく怯えていたが、そのうち気の短い先輩が辛抱できなくなって、玄関の内側まで近付いていって怒鳴った。
「いい加減にしろっ!うろうろしやがって……どっか行け!消えろ!去れ!」
その途端、徘徊する靴底の音はぴたりと止んだ。
僅かな間を置いて、誰かがスチール製のドアを「がんっ!」と蹴っとばすような音がして、それっきり静かになり、気配も消えた。
夜明けまでには、まだしばらくの間があった。
もし、ドアの向こうの暗闇に〈やたら〉なものがいたら?そう思うだけで怖くなって、誰一人、ドアを開けてみようとはしなかった。忘れよう、このまま忘れてしまおうと、神溝さん達はそのまま明け方近くまで黙って仕事に没頭していた。
朝になって、新聞配達がドアの外に新聞を投げていく音が聞こえた。
「……そろそろ大丈夫、かな?」
恐る恐るドアを開けると、玄関先に見慣れない……いや、見慣れてはいるが、こんな所にあるべきではないものが落ちていた。
そういえば昨晩、夜道で見た木柱には確か「暗黒坂」と書かれていたように思う。
今、どこからか引き抜かれてきて事務所の玄関のドアに叩きつけられている木柱にも、同じ地名が書かれていた。そう、「暗黒坂」と……。