太田さんは学生の頃、牛丼屋でバイトをした経験がある。
大手の牛丼屋ではなく、都内に数軒の姉妹店を持つ、小規模なチェーン店だった。
「東京ローカルのチェーン店ですけど、それでも二十四時間営業だったんです。で、僕は割と真面目に授業を受けていましたから、夜勤しかできなくて」
勤務時間は夜十一時から、明け方の七時まで。
途中で一時間ほど休憩時間があり、仮眠を取ることもできるという。
「ただですね、最初、深夜は三人シフトだって聞いていたんです。なのに、僕が入ってからすぐに、先輩のひとりが辞めてしまって」
一番の古株だったが、皆に挨拶もせず、急に転職してしまったのだという。
それでも、深夜は客足が少ないこともあり、さほど仕事には影響しなかった。
太田さんがバイトを始めて、二週間が過ぎた頃。
少し疲れを感じていた太田さんは、その晩、初めて仮眠を取ることにした。
先輩に聞くと、二階にあるハンバーグ屋の店内で、横たわることができるという。
同じ会社が経営する鉄板焼きのハンバーグ屋だが、こちらは深夜、店を閉めている。
「行ってみたら、カウンター席に固定式の丸椅子が幾つか並べてあったんです。で、どうやら、その丸椅子の上で横になれるみたいで」
多少アクロバティックではあるが、実際に横になると、思ったより具合がいい。
さほど背の高い丸椅子ではないし、幅も広いのでゆったりと寝転がれる。
固定式なので、椅子ごと倒れる心配もなかった。
〈これなら大丈夫だ〉と、太田さんは安心して眠りに落ちた。
どれほど時間が経ったのか──〈ずずーっ〉と足を引かれ、目を覚ました。
背中には、椅子が擦れた感覚がある。
混乱しながら、暗い室内に目を凝らし──息が止まった。
足首を、知らない女が掴んでいた。
地の底を覗き込むように深く俯うつむいた、髪の長い女だった。
「ひっ!」と、思わず悲鳴が喉から漏れる。
すると、〈ざらり〉と垂らした女の前髪が、徐々に持ち上がり始めて──
女の顔を見る前に、太田さんは気を失った。
次に目を覚ましたとき、太田さんはまだ丸椅子の上に寝ころんだままだったという。
見ると、自分の体が椅子三つ分、足側に引っ張られていた。
「でも、寝惚けて動いたんだって思うようにしたんです……だって、いい歳をして、お化けを見ましたなんて、恥ずかしくて言えないじゃないですか」
だが、一階に戻ると「お前、引っ張られたか?」と、先輩が聞いてきた。
先輩が言うには、二階の丸椅子で仮眠したバイトは、大半がやられるのだという。
「あれだろ、髪の長い女。でも、あの女のことは店長には言うなよ。クビになるから」
──お前が入って、すぐ辞めた古株のバイトがいただろ?あれがそうだよ。
なんでも、あの古株の店員は二階で足を引っ張られるのが嫌で〈何とかならないか〉と店長に苦情を言ったらしい。
その途端、「お前はもう、来なくていい」と、解雇を通告されたのだという。
「でも、なぜ店長に幽霊のことを言うとクビにされてしまうのか、いまでもその理由はわからないんです」
件の牛丼屋は移転してしまい、残された建屋には、現在別の店舗が入っている。