淡雪 泊まったはずの旅館と幻の鍋(北海道) | コワイハナシ47

淡雪 泊まったはずの旅館と幻の鍋(北海道)

バブルの頃の話だ。

当時、関東近郊にある銀行の営業だった山口さんは、先輩とふたりで、夏の北海道に出張したことがあった。

道内に広い農場を持つ地主が、土地を担保に融資を望まれたのである。

土地と名がつけば、人里離れた湿地帯にも値段がついた時代。

大口の契約になるかもしれないと、山口さんは意気込んで出張に臨んだのだという。

「いまとは比べ物にならないくらい、景気が良かったからね。出張費も、宿泊代込みで一日一万とか出ていたんだ。信じられないだろ?」

もちろん、高いホテルに泊まれば足が出ることもあるが、大抵、探せば格安の宿は見つかるものである。実際、出張のたびに山口さんは、少しでも安い宿泊所を見つけて、余った出張費を小遣い銭にしていた。

「そのときの出張でも、情報誌を色々探してね。そうしたら、取引先の農場からちょっと離れた町に、かなり安い旅館を見つけたんだ。一泊食事付きで三千五百円。まぁ、先輩とふたり一部屋だし、食事も期待はできないけど、とにかく安かったから」

前泊も含めて二泊、二人分の予約を取ったという。

空港から電車を乗り継ぎ、目的の駅に着いたのは午後六時。

日の暮れ始めた片田舎で、情報誌を頼りに予約した旅館を探した。

「情報誌には駅の傍って書いてあったんだけど……思ったよりだいぶ歩いてね。暖簾を潜った頃には、すっかり陽が落ちていたよ。ただ、予想していたより、立派な店構えの旅館でね。とても三千五百円で泊まれる安宿には思えなかったよ」

訪おとないを入れると、店の奥から主人が相好を崩しながら現れた。

顎あご髭ひげと頭髪がもみあげで繋がった、ペンションのオーナー風の男性だった。

「お待ちしておりました。さっ、こちらへどうぞ」

長い廊下を案内されながら、簡単に風呂と食事の説明を受けた。

客で混み合っているのか、館内の其処此処から「あははは!」と酔笑が響いてくる。

「平日なのに賑やかでね。『良い旅館を引き当てたなぁ』なんて思っていたんだけど」

主人に案内された部屋は、最低だった。

六畳ほどしかない狭い和室に、薄ぼんやりした裸電球がひとつ。

障しょう子じは所々が破れ、畳に至っては、縁が炙ったスルメのように反り返っている。

熱帯夜と言うほどではないが、湿気が酷い。

「まあ、安いのはわかるけど……ちょっと、これは」

部屋の隅に置いてある浴衣を広げてみたが、黴臭いので元に戻した。

暫くすると、不愛想な様子の仲居さんが、言葉少なに食膳を運んでくれた。

見ると、一杯の茶碗飯の他には、小さな鉄鍋がひとつ。

鍋の上には、雲のように白くふわふわとしたものが盛られている。

どうやら、卵白を泡立てたメレンゲのようだが──中で、黒いものが蠢いていた。

〈えっ!?……生き物?〉

驚いて、食膳と仲居さんを交互に見直すと「名物の淡雪鍋です」とだけ答えた。

そして、鉄鍋の固形燃料に火を入れると、さっさと部屋から出て行ってしまった。

「さすがに、これはどうかなぁって思ったんだけど……今更、他所に食事をしに行くのは面倒だし……それに、段々と鍋が煮えてくると、割といい匂いが漂ってきてね。先輩と顔を見合わせて、思い切って箸をつけてみたんだ」

──意外に思うほど、美味しかった。

酒漬けにした泥鰌だろうか、柔らかく煮えた白身の魚は滋味深く、箸を運ぶたびに口中に旨味が広がる。

熱で固まったメレンゲも、ほろほろと舌の上で溶ける食感が面白い。

何杯も、ご飯をおかわりをするほどの美味しい料理だったという。

「満腹になって、『じゃあ、明日に備えて風呂入るか』って話になったんだ。部屋は酷いけど料理は悪くなかったから、それなりに満足してね。そしたらさ……」

期待して入った露天風呂だったが、どうにも湯が温い。

水風呂かと思うほどに、湯が冷たく、生臭かった。

がっかりして、早々に風呂を出て、部屋で寝る支度に取り掛った。

だが、今度は蚊が気になって眠れない。

見ると、窓のアルミ枠が歪んでいて、窓が閉まり切っていなかった。

その手前の障子は、穴だらけで役に立たない。

「さすがに、フロントへ文句を言いに行ったんだよ。何とかして欲しくて。だけど、誰も出てこないんだ。それに、さっきまで騒がしかった館内も、なんだか静かで」

仕方なく、山口さんは布団カバーを外して、その中に入り込んで寝ることにした。

先輩は「暑いから、このまま寝る」と、湿った煎餅布団に大の字になっていた。

翌朝、山口さんは酷い気分で目を覚ました。

何故か体中がヌルヌルとして、ムズ痒い。

見ると、隣で先輩が顔中をぼりぼりと掻き毟っている。

「先輩は顔を手酷く刺されたみたいでね……で、僕の方も、背中がムズムズするからさ。シャツを捲って、先輩に見て貰ったら」

「……お前、背中が蛭だらけだぞ」と言われた。

喉元まで上がりかけた悲鳴を押さえ、ライターで炙って蛭を取り除いた。

そして、手短に支度を整えると、フロントに向かった。

腹を立てるより、むしろ〈こんな宿、一刻も早く立ち去りたい〉と思っていた。

が、いくらフロントで声を張り上げても、従業員が出てこない。

他の宿泊客の姿も、まったく見掛けなかった。

それでも、さすがに料金を払わずに立ち去る訳にはいかず、自分たちの名前を書いたメモ紙に宿泊料を包んで、カウンターに置いてきた。

そのまま暖簾を潜り、数歩進んで──後ろを振り返った。

貸しボート小屋だった。

目の前には、朽ちて半分池に沈みかけたボート小屋が、ぽつんと一棟あるだけ。

ついさっき、出てきたばかりの旅館はどこにもない。

恐る恐る中を覗いてみると、ボロボロに塗装の禿げたカウンターの上に、先ほど置いた宿泊料が残されていたという。

その日、商談を終えたふたりは、もう一度、旅館に戻ることにした。

昨晩の出来事が現実に起こったものなのかどうか、確かめてみたくなったのである。

だが、再び駅に着くと、どうも様子が違う。

駅舎を出たすぐ隣に、昨晩と同じ名前の旅館が建っていたのである。

試しに訪いを入れると、「ご予約の山口様ですね」と仲居さんが迎えてくれた。

「……まったく、狐につままれたような気持ちだったよ。部屋と風呂もちゃんとして

いるし、気になるところは何もなかったんだけど」

ただひとつだけ──夕飯に供された料理の中に、メレンゲが盛られた鍋があった。

聞くと、その旅館オリジナルの料理で『淡雪鍋』というらしい。

「で、箸を付けたんだけどね。中に鮭の切り身が入っていたかなぁ。正直さ、前の晩に食べた鍋の方が、はるかに美味しかったんだ」

それが、一番の不思議だったよ、と山口さんは笑った。

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