バブルの頃の話だ。
当時、関東近郊にある銀行の営業だった山口さんは、先輩とふたりで、夏の北海道に出張したことがあった。
道内に広い農場を持つ地主が、土地を担保に融資を望まれたのである。
土地と名がつけば、人里離れた湿地帯にも値段がついた時代。
大口の契約になるかもしれないと、山口さんは意気込んで出張に臨んだのだという。
「いまとは比べ物にならないくらい、景気が良かったからね。出張費も、宿泊代込みで一日一万とか出ていたんだ。信じられないだろ?」
もちろん、高いホテルに泊まれば足が出ることもあるが、大抵、探せば格安の宿は見つかるものである。実際、出張のたびに山口さんは、少しでも安い宿泊所を見つけて、余った出張費を小遣い銭にしていた。
「そのときの出張でも、情報誌を色々探してね。そうしたら、取引先の農場からちょっと離れた町に、かなり安い旅館を見つけたんだ。一泊食事付きで三千五百円。まぁ、先輩とふたり一部屋だし、食事も期待はできないけど、とにかく安かったから」
前泊も含めて二泊、二人分の予約を取ったという。
空港から電車を乗り継ぎ、目的の駅に着いたのは午後六時。
日の暮れ始めた片田舎で、情報誌を頼りに予約した旅館を探した。
「情報誌には駅の傍って書いてあったんだけど……思ったよりだいぶ歩いてね。暖簾を潜った頃には、すっかり陽が落ちていたよ。ただ、予想していたより、立派な店構えの旅館でね。とても三千五百円で泊まれる安宿には思えなかったよ」
訪おとないを入れると、店の奥から主人が相好を崩しながら現れた。
顎あご髭ひげと頭髪がもみあげで繋がった、ペンションのオーナー風の男性だった。
「お待ちしておりました。さっ、こちらへどうぞ」
長い廊下を案内されながら、簡単に風呂と食事の説明を受けた。
客で混み合っているのか、館内の其処此処から「あははは!」と酔笑が響いてくる。
「平日なのに賑やかでね。『良い旅館を引き当てたなぁ』なんて思っていたんだけど」
主人に案内された部屋は、最低だった。
六畳ほどしかない狭い和室に、薄ぼんやりした裸電球がひとつ。
障しょう子じは所々が破れ、畳に至っては、縁が炙ったスルメのように反り返っている。
熱帯夜と言うほどではないが、湿気が酷い。
「まあ、安いのはわかるけど……ちょっと、これは」
部屋の隅に置いてある浴衣を広げてみたが、黴臭いので元に戻した。
暫くすると、不愛想な様子の仲居さんが、言葉少なに食膳を運んでくれた。
見ると、一杯の茶碗飯の他には、小さな鉄鍋がひとつ。
鍋の上には、雲のように白くふわふわとしたものが盛られている。
どうやら、卵白を泡立てたメレンゲのようだが──中で、黒いものが蠢いていた。
〈えっ!?……生き物?〉
驚いて、食膳と仲居さんを交互に見直すと「名物の淡雪鍋です」とだけ答えた。
そして、鉄鍋の固形燃料に火を入れると、さっさと部屋から出て行ってしまった。
「さすがに、これはどうかなぁって思ったんだけど……今更、他所に食事をしに行くのは面倒だし……それに、段々と鍋が煮えてくると、割といい匂いが漂ってきてね。先輩と顔を見合わせて、思い切って箸をつけてみたんだ」
──意外に思うほど、美味しかった。
酒漬けにした泥鰌だろうか、柔らかく煮えた白身の魚は滋味深く、箸を運ぶたびに口中に旨味が広がる。
熱で固まったメレンゲも、ほろほろと舌の上で溶ける食感が面白い。
何杯も、ご飯をおかわりをするほどの美味しい料理だったという。
「満腹になって、『じゃあ、明日に備えて風呂入るか』って話になったんだ。部屋は酷いけど料理は悪くなかったから、それなりに満足してね。そしたらさ……」
期待して入った露天風呂だったが、どうにも湯が温い。
水風呂かと思うほどに、湯が冷たく、生臭かった。
がっかりして、早々に風呂を出て、部屋で寝る支度に取り掛った。
だが、今度は蚊が気になって眠れない。
見ると、窓のアルミ枠が歪んでいて、窓が閉まり切っていなかった。
その手前の障子は、穴だらけで役に立たない。
「さすがに、フロントへ文句を言いに行ったんだよ。何とかして欲しくて。だけど、誰も出てこないんだ。それに、さっきまで騒がしかった館内も、なんだか静かで」
仕方なく、山口さんは布団カバーを外して、その中に入り込んで寝ることにした。
先輩は「暑いから、このまま寝る」と、湿った煎餅布団に大の字になっていた。
翌朝、山口さんは酷い気分で目を覚ました。
何故か体中がヌルヌルとして、ムズ痒い。
見ると、隣で先輩が顔中をぼりぼりと掻き毟っている。
「先輩は顔を手酷く刺されたみたいでね……で、僕の方も、背中がムズムズするからさ。シャツを捲って、先輩に見て貰ったら」
「……お前、背中が蛭だらけだぞ」と言われた。
喉元まで上がりかけた悲鳴を押さえ、ライターで炙って蛭を取り除いた。
そして、手短に支度を整えると、フロントに向かった。
腹を立てるより、むしろ〈こんな宿、一刻も早く立ち去りたい〉と思っていた。
が、いくらフロントで声を張り上げても、従業員が出てこない。
他の宿泊客の姿も、まったく見掛けなかった。
それでも、さすがに料金を払わずに立ち去る訳にはいかず、自分たちの名前を書いたメモ紙に宿泊料を包んで、カウンターに置いてきた。
そのまま暖簾を潜り、数歩進んで──後ろを振り返った。
貸しボート小屋だった。
目の前には、朽ちて半分池に沈みかけたボート小屋が、ぽつんと一棟あるだけ。
ついさっき、出てきたばかりの旅館はどこにもない。
恐る恐る中を覗いてみると、ボロボロに塗装の禿げたカウンターの上に、先ほど置いた宿泊料が残されていたという。
その日、商談を終えたふたりは、もう一度、旅館に戻ることにした。
昨晩の出来事が現実に起こったものなのかどうか、確かめてみたくなったのである。
だが、再び駅に着くと、どうも様子が違う。
駅舎を出たすぐ隣に、昨晩と同じ名前の旅館が建っていたのである。
試しに訪いを入れると、「ご予約の山口様ですね」と仲居さんが迎えてくれた。
「……まったく、狐につままれたような気持ちだったよ。部屋と風呂もちゃんとして
いるし、気になるところは何もなかったんだけど」
ただひとつだけ──夕飯に供された料理の中に、メレンゲが盛られた鍋があった。
聞くと、その旅館オリジナルの料理で『淡雪鍋』というらしい。
「で、箸を付けたんだけどね。中に鮭の切り身が入っていたかなぁ。正直さ、前の晩に食べた鍋の方が、はるかに美味しかったんだ」
それが、一番の不思議だったよ、と山口さんは笑った。