落命 命を流し出す人(東京都) | コワイハナシ47

落命 命を流し出す人(東京都)

上条さんは、都内でラーメン屋を営んでいる。

カウンター席に七人座れるだけの小体な店だが、開業してすでに二十年が経つ。

元々、店の隣にある不動産屋の社長だったというが、生来のラーメン好きが高じて店を持ちたくなり、現在は不動産業を息子に譲ってしまったのだという。

「まぁ、趣味道楽って言っちゃあ、身も蓋もないけどさ。どうも、こっちの方が性に合っているみたいでね。有難いことに常連客もいるからさ、忙しくやっているよ」

そう言う上条さんに、〈何か不思議な体験はありませんか?〉と聞くと、少し考え込んでから、こんな話を教えてくれた。

上条さんがラーメン屋を始めてから、四年ほど経った頃のこと。

ある知人から、息子を雇ってくれないかと頼まれた。

聞くと、息子の名はSくんといい、生まれつき虚弱体質なうえに、軽い知的障害を持っているのだという。

そのため、最近まで引き籠りのような生活を送らせていたのだが、それでは本人のためにならないと周囲から諭され、信頼できる雇用先を探していたらしい。

「できるなら、色々な社会経験を積ませてやりたいんだ」

知人はそう言うと、地べたに額を擦りつけるようにして頼んだという。

「でね、とりあえず本人に会ってみようじゃないかって、後日連れて来させたんだよ。まぁ、確かに頭の回転は少し鈍いようだったが……挨拶はちゃんとできるし、なにより真面目そうでね。だから、試しに雇ってみることにしたんだ」

ただ、初めから料金の計算や注文取り、火を使う仕事などを任せることはできないので、もっぱらラーメンのトッピングと、皿洗いを担当して貰うことにした。

最初の頃こそ、慣れない手つきで失敗も多かったが、やがて仕事を覚え始めると、非常によく働いてくれたという。傍から見ていると、仕事のひとつひとつを丁寧に、まっすぐ取り組んでくれているのがよくわかった。

内心、ボランティアのつもりでSくんを引き受けた上条さんだったが、暫くすると彼のことをとても重宝がるようになったという。

「とにかく素直な、いい子でね。文句ひとつ言わないで、懸命に働いてくれたよ」

そんなSくんだったが、上条さんは一度だけ、彼を強く叱ったことがある。

ラーメンの具の盛り付けをしている最中、ビニール手袋を嵌めた指先で〈ズズッ〉と鼻を啜ったのだ。

「そんなことしちゃ、ラーメンが台無しだからね。それに、料理に携わる人間が絶対にやっちゃいけないことだからさ、強く言い含めたんだが」

鼻の具合が悪いときの癖なのか、中々止めさせることはできなかった。

そこで上条さんは一計を案じ、仕事中はSくんにマスクをつけさせることにした。

その甲斐あってか、Sくんが鼻を啜ることはなくなったという。

それから、四、五ヵ月も経った頃だ。

あるとき、お客さんが「シナチクが、何かヌルヌルするんだけど」と言い出した。

また、別の客は「このチャーシュー、古くなってないか?」と剣呑な顔をする。

〈そんなはずは〉と、トッピングの具材を確かめるのだが、痛んでいる様子はない。

だが、日が経つにつれ、益々客の苦情は増えていった。

どうやら、よく食べ来てくれている常連客ほど、苦情が多いようだった。

そうしているうちに、今度は初見の客が「おいっ、こんなラーメン食えねーよ!この餓鬼の鼻水だらけじゃねーかっ!」と、Sくんを指しながら声を荒げた。

一方、怒鳴られたSくんは固まってしまい、ただ目を見開くばかりである。

「でも、俺はそれを見て、ついカッとしてね。『てめえ、文句あんのか!』って怒鳴り返したんだ。第一、Sはマスクを着けているし、ラーメンに鼻水なんか入らないから」

だが、その後も同じ苦情を訴える客が続出した。

決まって、Sくんを指さし『……鼻水が』と言うのである。

しかし、上条さんが見ている限りでは、Sくんにおかしなところはない。

真剣に、ただひたすらラーメンに具材を載せているだけである。

〈どうなってんだ?〉と上条さんも疑問に思うのだが、原因は一向に掴めなかった。

そんな、ある日のこと。

ひとりの女性客が「ごめんなさい」と謝りながら、店から出て行ったことがあった。

見ると、カウンターには手付かずのラーメンと、その代金が置いてある。

上条さんは急いで店を飛び出し、その女性客を呼び止めると、「口に合わないなら、受け取れないから」とラーメンの代金を突き返したという。

だが、女性は「ごめんなさい……でも、それは受け取れないわ」と真顔で断った。

「でもこっちはさ、Sのことが頭にあったから『どうせアンタも、鼻水がどうたらって言うんだろ』ってさ、思わず声に出したんだよ」

すると女性は、悲しげな眼差しで、こんなことを言う。

「いいえ、違うの、そうじゃないのよ……きっと、あなたには見えていないのでしょうけど、確かにあの子は、鼻と口から水を流し続けているの……でもね、あの水は決して鼻水なんかじゃないわ」

──あれは、あの子の命そのものよ。

女性が言うには、この世にはごく稀に、自分の生命を体内に留めておくことのできない人間が、生まれてくるらしい。

大抵、そういう人は体が虚弱で、また寿命が短いというのだ。

「もっと悪いことに……あの子は自分の生命を、他人に食べられてしまっているの。何度も、何度もね。でもそれは、あの子にとって、とても良くないことなのよ」

女性はそれだけ言うと、足早に立ち去ってしまった。

「……正直言うとね、俺もあの女の言うことに心当たりがあったんだ。Sの奴、勤め始めてから、だいぶ痩せてきていてね。その頃は仕事も休みがちになっていたから」

Sくんの体を心配した上条さんは、ご両親と相談したうえで、彼に仕事をやめて貰おうと決心した。あの女性客の言ったことを鵜呑みにした訳ではないが、実際、Sくんの体調が優れないのは、誰の目にも明らかだったのである。

だが、ただひとり、Sくんだけは頑として納得しなかった。

「Sがさ、『やめたくない、ラーメンを作りたい』って泣くんだよ……それを説得するのは、本当に辛くてね。でもさ、心を鬼にして、仕事をやめさせたんだけど」

暫くすると、Sくんは不調を訴えて入院してしまった。

診察の結果、内臓の幾つかの器官が弱まっていることが判明し、上条さんが見舞ったときには〈もう、長くはないと思っています〉と、ご両親から告げられたという。

──それからひと月も経たないうちに、Sくんは亡くなった。

「いまでもさ、ずっと後悔しているんだよ。あのときにさ、少しでも長くSの奴を働かせておいてやれば良かったって、ね」

以来、店で人を雇ったことはない。

それが、Sくんに対するせめてもの手向けなのだと、上条さんは言った。

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