福島で復興事業に携わる、伊藤さんの体験である。
ある晩、事業案策定の会議で遅くなり、十一時過ぎに事務所を離れた。
事務所は伊藤さんの住まいに近く、彼は毎日自転車で通っている。
人通りのない夜の住宅街を、路地から路地へ、薄暗闇を辿るようにして進んだ。
すると、前方に小さな明かりが見えた。
どうやら路地の奥から、対向する自転車がこちらに向かって来ているようだ。
伊藤さんは自転車を左側に寄せつつも、相手の自転車に視線を送った。
禿げた髭面のおっさんが、無表情にママチャリを漕いでいる──だけなのだが、強烈な違和感を覚えた。
おっさんが漕ぐママチャリの前籠に、もうひとつ、おっさんの顔があった。
いや──籠ではなく、ハンドルの中心部に直接顔面が載っていた。
自転車を漕いでいるおっさんと同じ顔だが、憤怒に燃えた表情をしていたという。
「うおっ!何だっ!?」
思わず悲鳴を上げ、伊藤さんは自転車をギリギリまで左側に遠ざけた。
が、元々が生け垣に挟まれた路地のこと。
相手の自転車との距離を、大きく開けることができない。
すると、すれ違いざま〈にょっ〉と、顔だけのおっさんの側頭部から、白い腕が伸びてくるのが見えた。
その刹那、ずんと自転車のペダルが重くなる。
振り返ると、白い腕が伊藤さんの自転車の荷台を掴んでいた。
つまり、〈おっさんが漕いでいる自転車の、ハンドルから生えている顔だけのおっさんの、頭の横から伸びた腕〉に捕まったのである。
──訳がわからず、半狂乱になってペダルを漕ぎまくった。
すると後ろで、〈ガシャンッ!ギギギギッ〉と金属の擦れる音がする。
見ると、おっさんの自転車が横倒しになっていた。
が、顔だけのおっさんの腕は荷台を掴んだままなので、自転車が〈ガリガリ〉と引き摺られているのである。
乗っていた〈本体〉のおっさんは、振り落とされてしまったらしい。
それでも、自転車を漕ぐ脚を緩める訳にはいかない。
顔だけのおっさんが、荷台を放してくれないのだ。
伊藤さんは、必死になってペダルを踏み続け──不意にバランスを崩して、自転車ごと転倒してしまった。
無様に地面を転がりつつも〈あの自転車、どうなった?〉と、背後を振り返った。
〈本体〉のおっさんが、倒れた自転車を引き上げ、跨またがろうとしているところだった。
何げない、ごく自然な動作だったという。
そして、伊藤さんを一瞥すると「気をつけな」とだけ言い残して、去ってしまった。
──意味は、さっぱりわからなかった。
伊藤さんは、いまでも時々、夜の路地裏で自転車のおっさんを見ることがある。
やはりハンドルには、顔だけのおっさんが載っているそうだ。