先日、新宿の居酒屋で、飲み友達の戸田さんから話を聞かせて貰った。
彼のお姉さんに纏わる、幾つかの体験談である。
戸田さんのお姉さんは、若い頃、ヤンキーだった。
昔から両親と折り合いが悪く、何度も家出を繰り返した女ひとだったという。
最初の結婚をしたのは、二十歳を過ぎたあたり。
男の子を儲けたが、数年後に旦那と離婚し、親権を取られてしまった。
そのせいで自暴自棄となり、長い期間、酒に溺れた生活を送っていたらしい。
身体を壊し、倒れて病院に担ぎ込まれることもあったという。
その後、アルコール依存の治療で通った病院で知り合った男性と再婚し、ようやく生活に落ち着きを見せていた。
その頃のこと。
ある日の夕方、戸田さんは母親とお姉さんの三人で、帰宅途中に線路沿いの小道を歩いていた。
普段から通勤に使っている小道で、片側に住宅が並ぶ生活道路である。
戸田さんは買い物袋を運びながら、ふたりの後に従って歩いていた。
と、突然背後から「その先は、鬼がいるよっ!」と怒鳴られた。
驚いて振り向くと、知らない老婆が睨んでいる。
「うるせぇぞ、糞婆ぁ!迷惑かけんなっ」と、お姉さんが怒鳴り返した。
元はヤンキーなだけあって、実にきっぷの良い啖呵である。
すると老婆は──消えた。
外灯の下で、動きもせずに掻き消えてしまったのだという。
「あの老婆が何だったのかは、いまでもよくわからないんです。ただ、あのとき言われたことが、その後の出来事に繋がっているような気がして、よく思い出すんです」
それから二ヵ月ほど経った頃、病院から電話があった。
聞くと、お姉さんが勤め先のスナックの階段から転げ落ち、病院に運ばれたらしい。
大怪我ではないが、数日は入院が必要なのだという。
「でも、以前から度々病院に運ばれる人だったから、僕はそれほど気にしなかったんです。ただ、そのときは母がどうしても見舞いに行きたいと言いまして」
戸田さんは自分の車に母を乗せ、病院へ見舞いに行った。
お姉さんのいる病室は、ベッドが六つ置かれた大部屋だったという。
「なによぉ。見舞いに来るほどじゃないって、言ってあったでしょう」
お姉さんはいつものように、少し拗ねた風な口ぶりで迎えてくれた。
少し前に、旦那さんは家に戻ったという。
暫く雑談をし、面会終了の時刻が近づいたので、病室を出ることにした。
その際、母親が「看護師さんに、挨拶をしておきたい」と言い出した。
ナースステーションは病室のすぐ近く、エレベーターホールの正面にある。
受付を覗くと、中で看護師が老人と話をしているようだった。
「話が終わったら、挨拶しよう」と、母親と部屋の前で待つことにした。
が、中々ふたりの会話が終わらない。
「あの部屋は嫌なんだよ。何とかしとくれ」
「ですから、気のせいですって。ここ、三階ですよ」
「だから、気持ち悪いんだよ。夜になると、女が窓の外に立っていて。それも、夜の間、ずっとだよ……気になって眠れんからさ、何とかならんものか?」
どうやら老人が、看護師に何かを頼み込んでいる様子である。
話の内容には興味があったが、これ以上、病院に長居するのは気が引けた。
「長くなりそうだから、そろそろ帰ろうか?」と促すと、母親が頷いた。
エレベーターホールでボタンを押し、少し待つ。
すると先ほどの老人が、ナースステーションから出てくるのに気がついた。
そのまま廊下を奥へと進み、やがて病室に入っていく。
〈あれっ、あの病室、姉ちゃんがいる部屋じゃ……〉
少し気になったが、エレベーターが着いたので、階下へ降りることにした。
──その三日後、お姉さんは亡くなった。
外傷とは別に、元々お姉さんは内臓を弱めており、それが原因で突発的な臓器不全を起こしたのだと、医師から説明を受けた。
「さすがに『入院中に何で』とは思ったけど、昔から酒で入退院を繰り返してきた人だったから……でも僕は、あの見舞いの日に聞いた爺さんの話が気になっていて」
窓の外にいる女とは、お姉さんのことではなかったのか。
そんな風に、戸田さんは考えている。
お姉さんの葬式が終わり、一週間ほど経った頃のこと。
その夜、戸田さんは実家のお姉さんの部屋で、遺品の整理をしていたという。
殆どの持ち物は、旦那さんの家に置かれていたので、大した量ではない。
そろそろ終わりにしようかと、手を休めた矢先。
〈からから〉と玄関が開く音がして──『ただいまぁ』と、お姉さんの声が聞えた。
戸田さんは〈あっ、姉ちゃんが帰ってきた〉と部屋を飛び出し、階段を下った。
「でも……頭の中じゃ、『そんな訳はない』って気がついているんですよ」
急いで玄関まで下りたが、やはり誰もいない。
空耳だろうと、溜息を吐くと──『おかえり』と声がした。
振り向くと、廊下に母親が立っていた。
その瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れていたという。
「でも、なぜ母さんが『おかえり』って言ったのか……理由は聞きませんでした。何となく、聞いちゃいけないような気がして」
そう言って、戸田さんはお姉さんの話を終えた。