居酒屋で同席した田上さんは、あまり物事に動じない性格の男性である。
そんな彼に怖い体験はないかと聞くと、赤ら顔を綻ばしながら「怖くはなかったが、ヤバいと思ったことならあるよ」と、こんな話を教えてくれた。
田上さんの会社では、年に一度、必ずお花見を開催している。
ある年のこと、都内の桜名所として有名なT公園を花見の場所に選んだ。
広大な敷地に小さな山林を有した公園で、その山の麓ふもとには立派な桜が数多く植えられており、お花見には実に具合が良かったのである。
終業後、職場の同僚たちと公園に到着した田上さんは、早速公園の一角を占拠すると盛大に酒盛りを始めた。
「最近は誘っても来ない若手が多いって聞くけど、うちは〈のんべえ〉が多いからさ。桜が咲こうが萎うが、飲めりゃあ何処だっていいんだよ、結局」
自身も一いっ端の大酒飲みを自負する田上さんは、若手には負けじと、次々に酒瓶を空けまくったという。
薫風が心地よく、夜桜を透かす街路灯が仄かに色づいた、薄紅色の夜である。
──すると、ふと、田上さんの視界に妙なものが入った。
彼らが陣取った平地から、さらに一段高台となっている小山の斜面に、ぽっかりと横穴が開いていたのである。
侵入を防止するためか、横穴には太い鉄格子が填められていた。
「最初はさ、『あんなところに、防空壕なんてあったか?』くらいに思ったんだよ。大概、俺も酔っぱらっていたからね。でも、何度か見直しているうちに」
格子の内側に、人の姿があることに気がついた。
少し離れているのではっきりしないが、薄手のワンピースを着ているように見える。
男なのか女なのかは、わからない。
何かを掴もうとしているのか、そいつは目一杯に伸ばした腕を上下させていた。
気持ちの悪い奴だと思ったが、だからどうと言うほどでもない。
田上さんは〈酔っ払いがふざけている〉と、気にせずに飲み続けたという。
やがて、尿意を感じて近くのトイレに行き、ふらつく足で茣ご蓙ざに戻った。
目を遣ると──防空壕にいる人影の腕が、異様に長く伸びていた。
数メートルはあるだろうか、近くにいる花見客なら掴めそうな長さになっている。
が、どうでもよかった。
それよりも、たったいまコップに注ぎ直された日本酒を、如い何かにして美味しく飲み干せるのか、そっちの方が重要な問題だと思った。
田上さんは同僚と談笑しながらも杯を重ね、いつしか眠りこけてしまったという。
「で、暫く寝て、目を覚ましたんだ。そしたら、もう終電の時間でね。他の花見客は殆どいなくなっていたし、うちも大酒飲みの野郎どもしか残っていなくて」
彼は早速、〈飲み直そう〉とコップに手を伸ばして──嫌なことに気づいた。
細く真っ白な誰かの腕が、自分の足首を掴んでいた。
見ると、その腕は防空壕から真っ直ぐ、引き延ばされながら伸びている。
暫く考え、取り敢えず一杯飲んでおこうと決めた。
少し寝たせいか、喉が渇いていたのである。
公園は宴会の賑やかさを失ったが、しみじみと桜花を眺めるのも、また一興。
田上さんは、一杯、また一杯と、再び杯を重ねていく。
気がつくと、いつの間にか脚を掴む腕が、十数本に増えていた。
驚いて脚を動かそうとしたが、ずっしりと重い。
さすがに〈これ、ヤバいかな〉と考え始めた。
「そしたらさ、同僚が『寒くなってきたから、近くの○○駅まで行って飲み直そうぜ』って言い始めてね。これ幸いと、賛成したんだよ」
が、いざ立ち上がってみると、どうにもうまく脚を動かせない。
無理矢理に歩いてみたが、山の斜面を下るだけで息が上がってしまった。
十数本もの白い腕は、ずっと脚を掴んだままである。
まるで引き延ばされた素そう麵めんのように、山頂から長々と繋がっていた。
田上さんは堪り兼ね、「タクシーを呼んでくれないか?」と同僚に頼むことにした。
駅まで歩いて二十分もかからない距離だが、十数本の腕を引きずって、歩き続けるのは無理だと思った。
「それにさ、タクシーに乗れば当然扉を閉めるだろ。上手くすれば、この忌々しい腕を千切ることができるんじゃないかと思ってさ」
携帯で呼んだタクシーに乗って駅前の居酒屋に腰掛けると、駆けつけに一杯、冷えたビールを飲み干した。
腕は、まったく離れていなかった。
それどころか、心持ち本数が増えている気がする。
居酒屋の入り口を見ると、細く伸びた無数の腕が、引き戸の真ん中から伸びていた。
どうやら、ドアを透過しているようだった。
「で、いい加減、嫌になってさ。同僚らに『なあ、俺の脚、ヤバいことになっていないか?』って聞いたんだよ」
すると、同僚たちは「あぁ、お前の脚、ヤバいよな」と、足元を覗き込んだ。
暫し、テーブルに神妙な空気が流れ──
一同がどっと笑い出して、再び酒宴が始まったという。
それからのことを、田上さんは断片的にしか覚えていない。
どうやら早朝に帰宅して、だらしなく布団に倒れ込んだようである。
さすがに疲れて、そのまま眠りに落ちる直前──無数の腕に、身体中を掴まれていた記憶があるが、もはやどうでもいい。
次に目を覚ましたとき、一本だけを残して、他の腕がすべて消え失せていたからだ。
「結局、最後の一本は、五日くらい俺の足に纏わりついていたっけ。何度足を振っても取れないし、そりゃあもう、鬱陶しくてね。さすがに腹が立ったからさ、次の休日にもう一度、例の公園にまで行ってみたんだよ。また、防空壕にワンピースの野郎が出やがったら、怒鳴りつけてやろうと思ってね」
だが、公園内のどこにも防空壕などなく、鉄格子も見かけなかったという。
以来、田上さんはT公園を避け、もっぱらS御苑でお花見をすることにしている。
休日限定で、また夜桜も楽しめなくなったが、正体を失くすまで飲み続けるのは変わっていない。