母がみている(大阪府) | コワイハナシ47

母がみている(大阪府)

二十数年前、N子さんは就職を切っ掛けに職場に近い部屋を借り、高校生の妹とふたり暮らしを始めた。

借りたのは、大阪近郊にある築二十年を超えた古いアパートで、間取りは四畳半二間に、ステンレス板で出来た流し台と五徳の置かれた小さなキッチン。膝を抱えて入るのがやっとの風呂にトイレというもの。

当然、実家に比べると何もかも不便な環境だったが、家賃が思いのほか安かったのと、実家を出ることがN子さん姉妹の念願だったので、多少の不便は苦ではなかった。

ふたり暮らしを始めた当初は何も起きなかったが、住み始めてひと月を過ぎるあたりから、真夜中になると部屋の中で奇妙なことが起きだした。

──ギィッ……ギィッ……

ふたりで寝ていると、隣の部屋で小さな音が聞こえた。

──ギィッ……ギィッ……

何かが畳の上を歩き、その根太が軋みをあげているように聞こえる。

「ねぇ、おねぇちゃん、なんか音がするよ」

音に気づいた妹が、隣のN子さんの肩を揺さぶった。

「大丈夫よ。ボロアパートなんだから、夜中に誰かが歩けば軋んで音がするのよ……」

めんどくさそうに妹にそう答え、寝返りをうとうとしたときだった、

──キィッ、キィッ、キィッ……

もっと大きな音が鳴った。今度はこの部屋からだ。

──キィッ、キィッ、キィッ……

音は金属を擦った時に出る甲かん高だかい音。それが一定のリズムを刻んでいる。

飛び起きたN子さんは、どこから音がするのか部屋の中を見渡した。

──キィッ……キィッ……キィッ

しばらくの間、真っ暗な部屋で音の出所を探していると、それは足元にある妹の机のあたりから聞こえているのがわかった。目を凝らして見ると、椅子の背もたれが誰も座っていないのにゆっくりと右へ行ったり、左へ行ったりを繰り返している。

──キィッ……キィッ……キィッ

「おねぇちゃん、なにあれ?」

それを見た妹が思わず声を上げた途端、

──キッ…………

と背もたれは動きを止めた。すぐに部屋の灯りを点け、ふたりで椅子を確かめてみたが、勝手に動きだすような原因は見つからなかった。

その夜を境に夜中になると、不思議なことが部屋で続いた。

突然の激しい水音で目を冷まし、キッチンへ行くとちゃんと締めたはずの水道の蛇口が全開になっていたり、誰も入っていないトイレの水が勝手に流れたり、部屋の灯りが突然点いたり。

N子さんは、すぐに不動産屋へ駆け込むと、以前この部屋で自殺や病死、事件などはなかったかと訪ねた。ところが不動産屋からは、

「あのアパートは建てた直後から、当社で扱ってますが、事故とか自殺とかそういう類の話は一度もありません。ご不満なら引っ越し頂いて構いませんが?」

と、けんもほろろで取り合ってくれない。

仕方なく折りを見ては、同じアパートの住人に「事件は無かったか?」と聞いてまわったが不動産屋同様、それらしい話を聞くことはできなかった。

「ねぇ、早く引っ越そうよ」

すっかり怯えた妹からは、毎日のようにそう急かされた。しかし、新しい部屋を借りるにも、敷金や礼金、引っ越し代などを考えると、彼女の給料ではそう簡単にはできない。このまま我慢して住み続けるしかないのだろうかと、半ば諦めていた時のことだった。

──ジリリリリリン、ジリリリリリン……

けたたましい電話のベルでN子さんは目を覚ました。

枕元の目覚ましに目をやると、朝の六時をまわったばかりで、窓の外はまだ薄暗い。

隣でうるさいとばかりに布団を頭から被っている妹を横目に、N子さんは布団をはねのけると、這うようにして部屋の隅にある電話に手を伸ばした。

「もしもし……」

〈もしもし、N子ちゃん?〉

電話の向こうから聞こえたのは叔母の声だった。

叔母は彼女の実家の側に住んでいて、小さい頃から、N子さんたち姉妹をずいぶんと可愛がってくれた。そのためこうして実家を出た今でも、時々ふたりに電話をくれては困ったことはないかと相談にのってくれたりしている。

「あっ、おばさん。どうしたの? こんな朝早く……」

すると叔母は、あえて落ち着きはらったようなような口調で、

〈あのね、今朝お母さんからおばさんのところに変な電話があったの。言ってることが滅茶苦茶でね。それで気になって家に行ってみたら、お母さんが階段で首を吊ってたの……〉

「えっ? 首を? お母さんが?」

〈そうなの、それで救急車を呼んで病院へ運んだの。だからあんたたちも、すぐ病院に行ってくれる?……〉

突然のことにN子さんの頭の中は、一瞬で真っ白になった。そして最初に頭に浮かんだのは「母の元へ行くべきか?」と言うことだった。

そもそも、N子さんが妹と家を出ようと思ったのは、母親との折り合いの問題だった。

ふたりがまだ幼い頃、家には働かずいつも家にいる父の姿があった。少しでも気に障ることがあれば、大声を張り上げ物を投げつけたり、母に暴力をふるったりした。殴られ床の上にはつくばった母を、父は上から容赦なく蹴りつけた。N子さん姉妹はなすすべもなく、そんな母の姿を泣きながら見るしかなかったという。

やがて、そんな母の姿を知った叔母が仲裁に入り離婚が成立、父は家から姿を消した。ようやくの事で平穏な日々が訪れ、母と娘、三人の生活が始まった。しかし、女手ひとつで子供ふたりを養うのは、母にとって苦痛だったのかも知れない。

N子さんが中学生にあがる頃には、母の様子はすっかり変わってしまった。夜の仕事が多くなり、家に帰るのはいつも朝方になってから。家の家事はN子さんに任せきりで、食事は母の置いていくお金でパンやお弁当等を買って食べる有様。

さらに、何か気にいらないことがあると、すぐに大声を張り上げ物を投げつけたり、N子さんたちに暴力をふるったりした。

かつて見た悪夢が、再び現実となって今度はN子さんたちに降りかかってきた。

そこで、N子さんは就職が決まり、高校を卒業すると叔母だけに居場所を伝え、妹と一緒に実家を飛び出した。

だからこそ、いまさら母の元へ行くことに彼女は躊躇した。

危篤の母を目の前にして、なんと声を掛けたらよいのだろうか?

「昔のことは会ってからで良いから、ともかく病院に行って頂戴……」

受話器から聞こえる叔母の声に、はっと我に返るとN子さんは寝ている妹を起こすと、母が首を吊って病院に運ばれたことを伝えた。

「私、先に出てタクシー停めておくから、あんたもすぐに来て!」

着替え途中の妹にそう声を掛けると、N子さんは玄関へ続くガラス戸を開けた。

すると、玄関の三和土の上に、黒い煙に包まれた何か土下座をしている。背中からは黒煙が筋のように立ち上り、ゆらゆらと揺らめいている。

彼女は思わず息を飲んだ。

それはいま、首を吊って病院に運ばれたと聞かされた母の姿だった。

「かあ……さん?」

N子さんの言葉に、母はもたげた頭をゆっくり持ち上げると、ダラリと垂れた髪の間からじっと彼女を睨みつけた。次の瞬間、

〈よくも私を独りにしたな……〉

〈どうして私を置いていった……〉

〈どうして……〉

N子さんの頭の中に、母の声が流れ込んできた。

〈この薄情者……〉

〈裏切り者……〉

〈せっかく育ててやったのに……〉

母の頭が再びガクンとうな垂れる。次の瞬間バネではじかれたように頭が持ち上がり、首が折れるほどに天井を見上げると、またガクンとうな垂れる。

──ガックンガックンガックン……

まるで壊れたおもちゃのように、頭がものすごい勢いで上がったり下がったりを繰り返した。

〈なぜだ……なぜだ、なぜだ、なぜだ……〉

怒りと悲しさの入り混じった声が、エコーのようにN子さんの頭の中で響き渡った。

同時に『ひとりぼっちの実家で泣き叫ぶ母の姿』『自分たちの部屋の前で佇む姿』『部屋の中をうろうろ歩き回る姿』『夜中に妹の椅子から、寝ている自分たちを見下ろしている姿』『水道の蛇口を捻ひねる姿』が頭の中に浮かんでくる。

(これって、かあさんの……)

目の前では、黒い煙を立ち上らせながら、母が激しく頭を振り続けている。

やがて母が実家の階段の手すりに電気コードをかけ、輪になった部分に首を入れようとしている姿が頭の中に浮かんだ。

〈死んでやる〉〈死んでやる〉〈死んでやる〉

恨みの言葉が頭の中を巡る。次の瞬間、ぽんと階段を蹴ると母の足が宙に舞った。

「お姉ちゃん! それおかあさん?」

少し遅れて部屋を出ようとした妹が、玄関の母の姿を見て声を上げた。

──ジリリリリリン、ジリリリリリン、ジリリリリリン!

突然、部屋の電話が大きな音を立てた。

次の瞬間、玄関の母の姿も頭の中の声もかき消えた。

今見た物が信じられぬまま、急いで部屋の電話に出ると、叔母からの電話だった。

『落ち着いて聞いてね。あなたたちのおかあさんね、今病院で亡くなったって。だから、急がなくていいから来て頂戴……』

電話を切り、再び玄関の三和土を見たが、そこに再び母の姿が現れることはなかった。

N子さんは、真夜中に起きた一連の出来事は、ひとり家に残された母の念が、自分たちの元へ飛んできて起こしたことだと思っている。

そしてその想像通り、母が亡くなって以降、彼女たちの部屋で夜中、何かが起こることは無かったという。

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