長谷川さんは五歳から十歳になるまでの数年間を、父親の仕事の関係で韓国で暮らしていた。
彼女が十歳になったばかりのある日、母親と一緒に韓国の地下鉄で電車が来るのを待っていた。
母親と、どこに出かけたのかは忘れてしまったが、その日は休日で、ホームがガラガラに空いていたことは覚えていた。
「また電車が遅れているわ」
母親がイラついた声で言う。
長谷川さんは退屈を紛らわすために、ホームをキョロキョロと見回した。
すると自分たちから少し離れたホームの片隅に一人の女性が座っていた。
四十代くらいの中年女性は、何か奇妙な物を胸に抱いている。
それは薄茶色をした子供の人形みたいだったが、服などは身に着けておらず、どうやら全裸みたいだった。
猿かと思ったが体毛は無く、身体の所々にコブがあって全体的に形がいびつだった。
近寄ってそれをよく見たかったが、長谷川さんはいつも地下鉄では母親から離れないようにキツく言われていた。
少し経つと一人の青年が中年女性の前を通りかかった。
「それ、売り物かい?」
青年は、からかうようにそんなことを言ったという。
すると中年女性は何事か言いながら、青年に腕の中の人形を突きつけた。
すると青年は驚いて身を引き、バツの悪そうな顔をして足早にその場を立ち去った。
中年女性が再び座る時、長谷川さんと目があった。
女性は微笑むと、手に持っている人形を掲げて長谷川さんに見せた。
人形は赤ん坊の様に四肢を縮め、明かりに照らされてテカテカと光っている。
(ミイラ、あれはミイラだよね……?)
長谷川さんは、何かの本に載っていた子供のミイラの写真にそっくりだと思った。
「電車が来たわよ」
長谷川さんは母親に手を引かれて電車に乗った。
電車が発進してホームで座る女性の前を通り過ぎる。
女性は相変わらず微笑みながら電車内の長谷川さんに手を振る。
抱えているミイラが微かにブルブルと震えているように見えた。
その後、長谷川さんは何度も地下鉄でミイラを抱いた中年女性を見かけた。
しかし、母親に何度そのこと言っても、「そんな女、どこにもいないじゃない」という返答しかなかった。
それから十年近くが過ぎ、帰国した長谷川さんは東京の大学に通っていた。
その頃にはもう、韓国の地下鉄で見た中年女性のことなどすっかり忘れていた。
ある日、長谷川さんは遊びに行くために都内の地下鉄ホームで友人と電車を待っていた。
友人とおしゃべりをしているとホームの片隅に座っている人がいる。
その瞬間、あっと思った。
ミイラを抱いて座る中年女性。
長谷川さんは韓国の地下鉄での出来事を一気に思い出し、動揺した。
(なんで今更……日本まで追いかけてきたの?)
中年女性と長谷川さんの目が合う。
女性は目を大きく見開き、ニンマリと笑った。
まるで長谷川さんとの再会を喜んでいるかのように。
タイミング良く電車がやってきたので、友人を急かすようにして乗り込む。
車内には長谷川さんと友人以外、乗客はいなかった。
電車が走り始め、やっと張り詰めた神経が少し弛む。長谷川さんは右隣に座った友人に中年女性のことを話そうとして、絶句した。
友人が、いない。
隣には友人では無く、中年女性が座っていた。
「これは自慢の息子です、売り物ではありません」
女性はミイラを長谷川さんの前に突き出すと、韓国語ではっきりそう言った。
ミイラのようなものは口をパクパクさせながら、干からびた二つの眼球で長谷川さんのこと見つめていた。
気が付くと、終点の駅まで来ていた。
スマホには友人からのメールや着信マークが何個も点滅していた。
「ねえ、約束の時間になっても来ないけど、何かあったの?」と。