内田君が勧められたのは、とにかくやたら安い車だった。
「オートマ車は中古でも安くならないんですよね。でも、この車はオートマチック、パワーステアリング、エアコン、オーディオまで付いてこのお値段です。絶対にお買い得です。こいつは掘り出し物ですよ」
ディーラーのにこやかな笑顔が薄気味悪いくらいだったが、念願の自分の車が安く手に入るのだから悪いことではない。
バイトで貯めた金で車を買い、週末を彼女とのドライブで過ごす。それが安上がりに叶えられるなら、文句など言っては罰が当たると本気で思った。
手続きを済ませて納車した車は、ディーラーの言う通り中古にしては綺麗すぎるほどの極上品だった。走行距離メーターを見れば、まだ慣らしすら終わっていない。新古車と言っていいほどの掘り出し物だ。
「こいつはいい買い物をしたな」
外装も内装も申し分はない。
ただ、ときどきハンドルが不安定になるのが、少々気にはなった。まるで自分で運転していないような気がするのだ。
「でも……これがパワステって奴の特性なんだろうな。きっと」
内田君はパワステ車は初めてだった。
車を置くために、アパートから少し離れた所にある駅の側の駐車場を借りた。ちょうど駅からアパートへの通り道にあるため、内田君のアパートに遊びにきた友達は、内田君の車の側を通りかかってから彼の部屋にたどり着く形になる。
ある晩、友達の一人が内田君の部屋に来るなりこう言った。
「内田、おまえの車の中に誰かいたぞ」
「え?」
心当たりはない。
誰かが車にいたずらでもしているのか?それとも車上荒らしだろうか?
不安になった内田君は、訪ねてきた友達に留守を頼んで車の様子を見に行ったが、車の中には誰もいなかった。
「誰もいねーぞ」
「確かにいたんだけどなぁ……そうか、いないか」
これを皮切りに、小さな怪異が始まった。
最初に気付いたのは内田君の彼女だった。
彼女のマンションまで車で送ろうとしたとき、彼女はシフトレバーの辺りに何かが絡み付いているのを見つけた。
「あら……何よこれ」
見ると、レバーの根元に長い髪が絡んでいる。レバーだけではない。シート、ダッシュボード、ハンドルの周り……と、車内のそこかしこに、あからさまに気になるくらいたくさんの長い髪の毛が落ちている。
「ちょっと、どういうことよ、これ」
内田君の彼女は当時流行のショート・ヘアだった。こんなに長い髪が、しかも車のあちこちに落ちているからには、内田君が車の中に自分以外の髪の長い女を連れ込んだのだとしか考えられない。
「違うよ。そりゃ誤解だ。この車には女の子はおまえ以外乗せてないって」
「じゃあ何よ、この髪の毛は!」
心当たりがない。
なおも内田君の浮気をなじる彼女に、髪の長い男友達を乗せたのだと苦しい言い訳をしたものの、内田君には本当に心当たりがなかった。
車を買ってから一ヵ月くらいした頃、彼女とドライブをした。
彼女を助手席に座らせて機嫌よく海岸の近くを流した。
岬から見える水平線にはしゃいでいた彼女が、運転席の内田君を振り向いた途端に言葉を切った。
「と、停めてぇ!」
「ん?どうした?酔ったのか?」
路肩に車を停めると、彼女は内田君の右側の窓をじっと見ながら言った。
「今ね、内田君のほうの窓にね、内田君と長い髪の女が映ってたの。びっくりして助手席の窓を見たら、あたし以外の……長い髪の知らない女が映ってたの!」
まさか。
長い髪の女なんてもちろん心当たりがない。
内田君は「気のせいだよ」と、何とか彼女を宥なだめて車に乗せると、その日の予定を切り上げて帰ることにした。
帰りは神奈川県と東京都の県境にある、とあるトンネルを通った。
すると、不意にハンドルが利かなくなった。自分で運転しているのではなく、誰かが勝手にハンドルを動かして運転しているみたいだった。隣の席に座った彼女は黙り込んでしまっていて、とてもこのことについて話をできるような様子ではなかったので、内田君はハンドルに任せてそのまま車を走らせた。
不意に何かを轢ひいたような衝撃に襲われた。
「!」
内田君はブレーキを踏んで車を停め、車外に飛び出した。
車の後ろにぼろぼろのハンドバッグが落ちていた。
内田君は不安げにこちらを見る彼女に向かって笑ってみせた。
「大丈夫。ただのバッグさ。猫も人も轢いちゃいないよ」
ハンドバッグを道の端に放り捨て、再び車を走らせた。
トンネルを抜けた。
辺りは陽が落ちて薄暗くなり始めていた。二人は無言のままだったので、気分転換にカセットデッキのスイッチを入れて音楽を掛けた。
そのまま走っていると、内田君の彼女は不意に掛かっていた曲よりも大きな声で叫んだ。
「停めてぇっ!」
ブレーキを鳴らして車を停めると、真っ青になった彼女はドアを勢いよく開けて車から飛び降りた。
「あたし、もうこの車に乗りたくない!」
「どうした!何が見えたんだ?」
「窓よ、窓!窓にまた長い髪の女が映ってたのよ!」
「気のせいだ。それは気のせいだ!」
「絶対に変よ、この車!だって窓に映ってた女、さっき落ちてたハンドバッグを持ってたのよ!」
結局、これ以上この車に乗るのは嫌だと言って、彼女はタクシーを拾って最寄りの駅から電車で帰った。
内田君は、彼女の乗ったタクシーを見送ると、その足で車を売りに行った。
内田君の説明を聞いたディーラーは、苦笑いしながら車を買い取った。
「絶対に廃車にしてくださいよ」
「ええ、承知していますとも。しかし……いい車なんですけどねぇ」
ここで少し余計な詮索をしてみよう。
この車そのものは決して機械的な調子が悪いわけではない。
そしてディーラーにとって、売ってもすぐに売り返されてくる、こんなに回転のいい「掘り出し物」もない。ディーラーは廃車にすると応えて車を引き取ったが、本当に廃車にされているかどうかは確かめるすべもない。
これから車を買おうと思っているあなた。
安すぎる車には用心が必要だ。