レインコートの女(東京都) | コワイハナシ47

レインコートの女(東京都)

二〇〇〇年八月のその日、東京は土砂降りだった。

井戸さんが自分の部屋にたどり着いたのは、夜の八時くらいだっただろうか。傘も役に立たないほどの雨は、井戸さんの服をびしょ濡れにしていた。

玄関の鍵を開けて、誰もいない暗がりの室内に足を踏み入れた瞬間、何とも言えない嫌な気分になった。原因はわからない。とにかく、蒸した部屋に外の空気を入れようと窓を開けると、アパートの階段を下りてくる女性を見かけた。

女は、年の頃三十歳台ほどに見えた。フードのないベージュのレインコートを着て、滴る水滴を拭いもせずにいる。雨の日にレインコートの女がいても何の不思議もない。しかし、何か変だった。

紫に近い真っ青な顔をしたその女の目は、レインコートと同じような白っぽい色をしていた。

一瞬、女は井戸さんのほうを見た。

が、すぐに階段を下りていってしまった。

……いや、降りている振りをしているような感じだった。この古い階段は立て付けが悪いのか、普段から静かに降りようとしてもギシギシと音が響く代物だったが、そのとき、女は全く足音を立てずにエスカレーターにでも乗っているかのように下りていったのだ。

井戸さんは得も言われぬ不安を感じて、階段側の窓を閉めた。その後すぐに外に出てみたが、つい今し方階段を下りたはずの女の姿はどこにもなかった。

ほんの数秒。

土砂降りの中に、女は消えてしまったのだ。

訝しみながらも部屋に戻った井戸さんは悪寒を感じた。何か、よくないものを見たのではないかという微かな不安を抱いた。不安は、冷えた身体からますます体温を奪う。

次第に具合が悪くなってきて、そのまま寝込んでしまった。

早朝、女の歌声が聞こえた。

それは微かに聞き取れるかどうか、というくらい儚い呟きのようでもあった。声が小さすぎて鼻歌に聞こえるほどだ。窓もガタピシとうるさい。まだ昨夜の雨の余波が残っているのかとも思ったのだが、そういうわけでもないようだ。

何度か寝返りを打っているうちに、井戸さんはあることに気付いた。

右向きに寝ると声は消え入るように聞こえなくなる。そして左向きに寝ると息を吹き返したかのように歌声が聞こえてくる。

何度か寝返りを繰り返しているうち、左に寝返りを打った途端に金縛りに遭った。その直後、女の歌声は井戸さんの頭の中に直接響くほど鮮明に聞こえてきた。

あまりにも同じフレーズばかりを繰り返し歌うので、だんだんその意味もわかってきた。

その後、金縛りに遭ったまま再び眠りに落ちたのだが、残念なことに目覚めたときには歌の内容は忘れてしまっていた。

気にしないほうがいいのはわかっている。だけど気になる。

「何て歌っていたんだろう……」

それからまたしばらく経った、八月二十日頃。

その日、何かの予感があったわけではない。いつもそれは前触れもなくやってくるからだ。いつもと同じように、そして唐突に怪異が訪れた。

深夜だった。

不意に目覚めた井戸さんの視界には、アパートの外の風景が広がっていた。自分は部屋の中で寝ていたはずだ。確かに寝ている。そして目は開いている。なのに、部屋の外に自分の意識が移り、部屋の中に居ながらにして外の様子が手に取るように『見える』のだ。

こんな感覚は初めてだった。

そして、道の向こうから女が近付いてきた。多分あの女だ。

どうやら、笹舟が川の流れに沿って流されるようなもので、決められたルートを外れて動くことはできないらしい。女は、そのラインから外れることなく近付いてきて、横たわっていた井戸さんの真上を通り過ぎるコースを伝っていた。

そのとき、井戸さんは一瞬だけ安堵を感じた。感じてしまった。

(自分の上を通りすぎるのさえ我慢すれば、これでもうどこかに行ってくれる……)

そう思った瞬間、女が井戸さんに覆い被さってきた。

「あなた、私が見えるんでしょう?」

……ねえ、そうなんでしょう?私が見えるんでしょう?

女はそれだけを繰り返しながら、井戸さんにのしかかってきたのだ。もはや指一つ動かすことができなくなった。

こちらを見つめてくるのは、見間違う事なきあの嫌な目だった。腐った卵の目。

レインコートの女。

彼女のその日の服装はあのベージュのレインコートではなく、黒いワンピースに真珠のネックレスというシックな出で立ちだった。どこかの葬式から帰ってきたかのようでもある。線香の香りが漂ってきそうなどうにも嫌な気分だった。

女が井戸さんに覆い被さった瞬間、視界に知らない風景が飛び込んできた。

夢を見ているわけではない。目は開いている。そのはずなのに、そこには明らかにアパートの中とは異なる風景が広がっていた。

蒸すように暑く、じりじりと照りつける夏の陽射し。陽炎かげろうが立ち上るほどよく煮えた地面。たくさんの参列者は、唇を噛みしめ涙を堪えている。

それは、どこか戸外の慰霊祭のようにも見えた。森の奥、遙か山頂で行われている、大がかりな慰霊祭だった。

麦わら帽子にワンピースを着た女が、その光景をカメラで撮影していた。泣いている参列者を、大きな石碑を、お経を上げる僧侶の姿を、あちこちの角度から撮影している。

場違いだった。それはあまりにも場違いに見えた。

井戸さんはこう感じた。

(この慰霊祭は、彼女のためのものだ。なのに、彼女は自分が死んでいることに気付いていないのだ……)

その途端、無邪気にシャッターを押していた麦わら帽子の女は、井戸さんを振り向き、そして言った。

「私、死んだの?」

そしてもう一人。黒いワンピースの女も言った。

「私が見えるんでしょ?」

耳元で囁く黒いワンピースの女。カメラを持った麦わら帽子の女。

どちらも同じ人物だった。二人の女は同じ言葉を繰り返しながら近付いてきた。

井戸さんに耐えられる恐怖の限界はそこまでだった。

「もうやめて!」

やっと絞り出すことができた絶叫が、しがみつく女を井戸さんから引き剥がした。

「ああ……いやぁぁぁぁぁぁぁ……」

女はまだ話し足りない様子だったが、名残を惜しむように消えていった。

以来、井戸さんの部屋にあの女は現れていない。

ただ、もし。

「もし、あのとき『あなたはもう死んでいるよ』って、言葉に出して言っていたら、一体どうなっていたんだろうな、って」

シェアする

フォローする