まっている(東京都新宿区) | コワイハナシ47

まっている(東京都新宿区)

二十世紀の終わりぐらい、未島氏がまだミュージシャンだけでは食えなかった頃の話。

彼は、夜の仕事を副業にしていた。

ライヴハウスやスナック、キャバクラ。そういった店のオーナーやママさん、従業員などに直接交渉を申し出るという、一種の飛び込み営業である。

その晩、未島氏は後輩の大賀を連れて夜の新宿を彷徨っていた。

季節は冬、時間は夜の八時半頃、そして場所は歌舞伎町の区役所通りの近く。ちょうど夕方に入った客が二軒目を目指して吐き出される時間帯で、寒風吹きすさぶ街にはいい感じにできあがった酔客が溢れていた。

店が一回転目を終えて一段落付いた頃を狙って、未島氏達は歌舞伎町一丁目にあるビルの地下の店に目星を付けた。

重そうな扉を開けて中を覗くと、そこには十二畳ほどの広さの空間があった。

L字型のカウンターと、小さなステージ、ボックスシート。これまでの営業で何軒も見てきた、中堅程度のパブだった。

スタッフは若いホステスが一人と同年代のボーイ、そしてカウンターの奥に三十代くらいのバーテンダーの合わせて三人。応対に出たボーイの顔が辛うじて判別できるかどうか、といったほどに店内は暗かった。

(この暗さ、消防法ギリギリだよな……)

飲食店の照明は明るさが決められていて、あまり暗くてはいけない。もちろん、真面目に守っている店ばかりでないことはわかっているが、それにしたって暗い。

未島氏は客が途絶えたのを見計らって話を切り出し、営業を始めた。

カウンターの隅でボーイと顔を突き合わせつつ、交渉を始めてしばらく過ぎた頃。

「……ということでいかがでしょうか。で、書類ですが、おい大賀」

と、後輩に声を掛けると、大賀はカウンターの後ろにあるボトル棚を凝視していた。

飲みたい酒でもあるのか、と窘めようとしたところ様子がおかしい。

ボトル棚の中央辺りを食い入るように見つめるその目は、驚くほど大きく見開かれていた。宵闇の猫のように瞳孔を全開にしているのが、闇に慣れた目にはっきり見える。

大賀は顔面から大汗を滴らせていた。炎天下で信号待ちをしているサラリーマンのようにすら見えたが、季節は冬である。適度に暖房の効いた店内であるとはいえ、大汗を掻くほどの温度設定でもない。

「あれ……あれ……」

大賀の声が聞こえる。何か、ぶつくさと戸惑った声を洩らす。

(これは使い物にならねえ)

未島氏は、急に腹具合でも悪くなったのだろう、と判断した。

大賀のカバンから書類を取り出して契約をまとめた未島氏は、店のスタッフにくれぐれもよろしくと頭を下げ、なお具合の悪そうな大賀の袖を引いて早々に店を出た。

階段を上りビルから出たところで、大賀は身体中の空気がすべて抜けてしまうのではないかと思えるほどの大きな溜め息をついた。そして自分の頭を握り潰すほどの勢いで、左右のこめかみを強く押す。頬を擦るハンカチはずぶ濡れのテーブルを拭った後かと思えるくらいにびっしょり濡れて、どこで擦っても汗を拭き取る役に立ちそうにはない。

「……おまえ、具合悪いならそう言えよ」

後輩の不調を見かねた未島氏に、大賀は小さく呟いた。

「まってます」

「ああ?」

思わず聞き返す。

夜の歌舞伎町に溢れる雑多な喧噪の中では、囁くほど幽かな大賀の声は聞き取れない。

「まってますね」

「よく聞こえない。何だって?何を待ってるって?」

「板前さんとその奥さんが」

意味がわからない。

未島氏は、要領を得ない大賀の言葉に苛立った。

「はあ?板前さんとその奥さんが何?何を待ってるって?ていうか、それが何の関係があるわけ?」

「……何を聞いてるんですか!待ってるんじゃない。埋まってるんですってば!」

大賀が突然大声を張り上げた。

「さっきの店。カウンターにボトルの棚があったでしょ。あの棚の前に、板前さんとその奥さんが二人並んで立ってたんです」

「そんな奴、いたか?」

「いたんですよ」

板前さんらしき男もその奥さんと思しき女も、大賀を見ていたわけではないらしい。

目は開いていたけれども、だけどどこも見ていない。

「何となく透けてました。ぼんやり立ってて……あの二人、さっきの店の床下に埋まってるみたいですよ。……ああ、そうです」

ビルから離れるにつれ、大賀は次第に落ち着きを取り戻した。

「……前のお店の人じゃないですかね。板前さんが立ち退きを執拗に拒んだみたいで……二人まとめて滅多刺しですね、ありゃ」

あの店、きっと流行らないだろうな──。

未島氏は、溜め息をついて次の店を探した。

実際、件のパブは直に廃業してしまったのだが、ゴールデン街に近い歌舞伎町の一等地ということもあって、そのテナントには途切れることなく新しい店が入っている。具体的な場所を未島氏から教えてもらえたので、今度誰かを誘って行ってみようかと思っている。

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