M君が住んでいたアパートを追い出されてから一ヶ月が過ぎた。
仕事を辞めて、軽い気持ちで、家賃を滞納したためだが、まさか本当にホームレスになるとは考えてもみなかった。
ま、なんとかなるさ。最低限の荷物を詰め込んだ旅行かばんを持って、とりあえず栄のマンガ喫茶に寝泊まりした。
すぐにバイトを見つけて、新しいアパートを探すつもりだった。しかし住所不定のM君を雇ってくれる所はなかなか見つからず、あっという間に財布のお金も底をついてしまった。
今日仕事を見つけないと、マンガ喫茶も追い出される。やべえ、このままだとホントのホームレスだ。とにかく日雇いの仕事でも何でも見つけよう。そう思ったM君は早朝、歩いて名古屋駅を目指した。
昔見たテレビのドキュメンタリー番組で、名古屋で日雇い労働者に仕事を手配する寄せ場があるというのを思い出したのだ。
ホームレスにまじって仕事を探すなんて、ありえないけど、背に腹は代えられなかった。
まだ朝日も昇らない、薄暗い名古屋駅のまわりをM君は歩いて探した。
たしか笹島って言ったっけ……? 駅前を何度も行き来していると、やがて路地で、それらしい労働者の人だかりを見つけた。
M君が近づくと、明らかにホームレスと思しき男たちが十数人立っていた。
その中心に手配師と思しき、眼鏡をかけた、やせこけた男がいた。年は四十代後半か。
「あれ……あと一人は?」
手配師はまわりを見回している。人手が足りない?これはチャンスかも。
「あの…」
M君はさりげなく声をかけたが、手配師は怪訝そうに目を向けた。
「もし人手が足りないなら…僕も仕事がしたいのですが」
M君が精一杯の笑顔で言うと、まわりのホームレスが一斉にM君を見た。
宿無しとはいえ、明らかに周囲とは異なる青年が立っているのだから仕方ない。
「あんたが?」手配師が少し驚いて聞き返した。
「はい、なんでもやりますよ」
M君は営業スマイルを見せた。いざとなると、あんなに苦痛だった作り笑いがこんなに簡単にできるなんて…。専門学校を卒業したM君は小さな会社に就職したものの、希望しなかった営業職に配属されたあげく、上司ともめて退社してしまった。仕事で常に求めれるのは常に笑顔。それがどうしてもなじめなかった。
「そうか…、時間もないし、君でいい。加えよう」
手配師はしばらく考えた後、M君を見て言った。
あっけなく新しい仕事が決まった。内容は廃ビルの解体作業の手伝い。
日当は仕事の後、現金で支給される。思ったより高給で、M君は内心ほくそ笑んだ。これでマンガ喫茶に一週間は泊まれる。
迎えの車が来るまで、M君は一緒に働く男たちを見た。
一番若そうな人でも五十歳を過ぎ、中にはどう見ても七十過ぎの老人もいる。
これなら、あまりきつい肉体労働ではなさそうだ。ラッキーかも。
ほどなくしてM君たちの前にミニバンが現れ、手配師にせかされるように、全員が車に乗り込んだ。
ホームレスに囲まれてのドライブは少し緊張したが、ニオイなどを気にする暇もなく、再び路地に入った車は十数分の運転で現地に到着した。
あれっ……。M君は窓の外を見て拍子抜けした。
なんだ、栄に戻ってきた?
当時つきあっていた彼女とよく歩いた道、ラブホテル街だった。
車を降りると、目の前に古びた一軒のホテルがあった。
外壁は汚れて、スプレーの落書きも目立つ。その回りを敷地いっぱいに、白いビニールシートが囲んでいる。
夜が明け始めたとはいえ、看板や室内のライトは一切ついておらず、一部の窓は割られていた。明らかに廃ビルの趣だ。
「へえ、このビルを解体するんすか」
M君はホテルを見上げて言うと、準備運動とばかりに屈伸を始めた。
すると隣の初老の男がM君に言った。
「俺たちは解体する前に、中の備品や設備を運び出すんだよ」
備品の運び出し? 引っ越しのバイトのような?
日雇い労働者がさせられる解体の仕事と聞いて、M君はもっと危険なものを想像していた。
なんだ荷物の運び出しかよ…ちょっと拍子抜けしてしまった。
「あ、俺…体力には自信ありますから」
M君がそう言うと、男は苦笑して言った。
「そんな力仕事じゃねえよ」
「え、そうなんですか…」
じゃあ、何が大変…。
「ここじゃ、運び出すときにちょっと注意しなきゃいけない」
M君には男の言っている意味がよく分からなかった。
「どういうことですか?」
「事故が多いんだよ、やたら」
「事故?」
「このビルはな、これまでも何度か解体工事の噂があったんだけどな。そのたんびに、なぜか現場で事故が多発して中止になっているんだ。死者も出てるから、みんなやりたがらないんだよな。知り合いはこのビルにゃ何かいるっていうんだけどな…俺にはよくわかんねえや」
M君には初老の男の話がにわかに信じられなかった。
しかし予想以上の高給と、見た目には簡単な作業のギャップを考えると、笑って否定する気にもなれなかった。
まさかね…。初老の男も、M君の戸惑う顔を見ると、満足げに含み笑いをするだけで、離れていった。
やがて、現場の責任者らしき作業着を着た、丸刈りの男が現れ、彼に言われるまま、全員がラブホテルに入っていった。
M君は他の二人の六十代の男たちと共に三○二号室の備品の運び出しを行った。
作業着はもちろんマスクやヘルメットも支給されず、集まった時の服のまま、M君は備品の運び出しを行った。
三○二号室はほとんど手つかずで、ベッドの上にはフトンが乱れたまま残されている。
ほこりっぽい室内は朝日がかすかに差し込む程度で薄暗く、まだ生きていた照明をつけても、殺伐とした雰囲気が漂い、なんとなく落ち着かなかった。
そういえばラブホってこわい噂、けっこう聞いたことあるな。
ベッドの下の床を覗いたら、お札がびっしり貼られていたとか…。
M君は念のため、ダブルベッドを持ち上げてみた。
しかしそこには薄汚れたカーペットがあるだけで、他に何もなかった。
胸騒ぎがしてベッドをていねいに調べてもみたが、特におかしな点もなかった。
そのうち、他の二人が黙々と作業を始めたので、M君も従うことにした。
……考え過ぎかもな…。
部屋からの備品はすべてホテルの外に出し、分別していく。
棚などの比較的重い物は協力して運んだが、一番若いM君がなるべく重い物を運ぶことにした。
数時間かけて、かなり部屋の中も片付いてきた。M君も友達の引っ越しを手伝ったことを思い出し、コツをつかめば、なんてはことはない作業だった。
部屋の中であとめぼしい備品は…ミニ冷蔵庫ぐらいか。
M君は風呂場近くのミニ冷蔵庫に近づき、動かそうとした時、その背後と壁の隙間に、ほこりにまみれた、小さな人形を見つけた。
髪の長い女の子の人形だった。
なんでラブホに…。子供がここで遊んでいた…?
いや、待てよ。大人にもこの手の愛好家はいるしな…。
M君は人形を右手に持ったまま、ミニ冷蔵庫を抱え、一階に向かった。
そして冷蔵庫を廃品業者のトラックに積み込んだ後、人形を燃えないゴミのポリ袋に放り込んだ。
そこで現場責任者から、昼休みを告げられた。
安いコンビニのパンが支給され、M君たちはおのおのの場所で、パンをかじった。
さすがにホテルのほこりっぽい室内で食べるのは気が引けて、ホテルの玄関で食べた。
現場責任者からは、むやみに外で食べないようにと注意されている。そりゃそうだ。ホームレスがラブホ街に集団でたむろしていたら、それだけで警察に通報されるかもしれない。
しかし普段着のM君はそんなことを気にすることもなく、シートに囲まれたホテルの外壁にもたれて食べた。
朝から肉体労働をしたせいか、パンがやたらと美味しく感じられた。身体を動かしたことで妙な満足感すら得ていた。俺、なにやってんだろうな。目の前を通り過ぎるカップルをぼんやり眺めながら、M君は思わず苦笑した。
休憩は十五分程度で終わり、M君は再び三○二号室に戻った。
この部屋での作業はほとんど終わりかけていた。ここが片付けば、次は隣の部屋を手伝うらしい。若いM君がいるから三○二号室が早く片付くのは当然だった。
その時、隣の三○一号室から「おーいっ」と声がした。たぶん、老人しかいないから重い備品が運べないんだろう。
M君は三○二号室を出て、隣のドアを開けた。
隣も似たようなレイアウトでほこりっぽく、窓からわずかに差し込む陽光だけの室内は薄暗かったが、運び出し作業がほとんど進んでいないことは容易に分かった。
しょうがねえなあ……。M君はぼやきつつ、ダブルベッドの前に立つ、五十代のやせこけた、見るからに頼りなさそうな男に近づいた。
男はうつろな目でM君を見た。
「…なあ…飯から戻ったら、こうだったんだよ…」
最初、男の言っている意味がよくわからなかった。
震える男の目線をたどると、ダブルベッドが少しせり上がり、傾いているように見えた。
あれ…? ベッドと床の間に、何か大きな物体が挟まっていた。
よく見ると、それは人間だった。老人が血まみれでベッドに挟まって倒れていたのだ。
M君は老人を見て、呆然と立ち尽くした。
……いったいどうやったら……こんな風に挟まれるんだ…。
うつぶせの老人はぴくりとも動かない。
「死んだのかなあ」
老人の相棒である五十代の男が力なくつぶやいた。
M君は念のため、ベッドの隙間から助けを求めるように伸びた老人の右手首に触れてみた。
その肌は冷たく硬直し始めていたが、かすかに脈も感じられた。
生きてる…?
その時、背後でホテルのドアが開く音がしたかと思うと、現場責任者の男が足早に入ってきた。
男は老人を見るなり、驚くこともなく、「あーあ…」とぼやいた。
「これだから…老人が無理してベッドなんか運んじゃいけないんだ」
M君は妙な違和感を覚えた。説得力のない、まるで自分に言い聞かせるような口調だ…。
そもそも、こんな老人が無理して一人でベッドを運ぶわけないだろう。
「老人はすぐに無茶をするから。また事故だよ」
現場責任者はわざとらしく舌打ちすると、携帯電話を耳にあて、電話をしながら部屋を出ていった。
五十代の相棒も、困ったように頭を掻くだけで、老人を助ける気配はない。
けが人がいるのに、なんだ、この妙に落ち着いた雰囲気。
…まるで、いつものことのよう…。
M君ははっとした。
まさか…原因不明の事故が起きても…、老人だと本人に原因があると思われやすい…。
だから高齢の人ばかり雇っていた…?
老人は救急車で運ばれ、待機していたM君たちは結局解散となった。
夕暮れ、再び駅近くの寄り場に戻ったM君たちは日当を受け取った。当初の半分の額だった。
なるほどね…死者が出なかったら全額支給ってこと?
それでもホームレス状態の自分にとっては有り難い額だった。
さてと、栄も近くだし、またマン喫に戻るか……。でも、その前に……。
M君は路地裏の自販機でタバコを買うと、コートのポケットに手を入れ、ライターを探した。
その時、手がポケットの中の異物に触れた。
ん…? 硬くてちょっと細長い…。
異物を取り出して、M君はあっとなった。
髪の長い人形だった。あのラブホの部屋に捨てられていた。
M君は薄汚れた人形を見つめた。俺……たしかに捨てたはずなのに。
通行人が自分に奇異なまなざしを向けていることに気づいたM君は、思わず人形を捨てようとした。
しかし、昼間ベッドに挟まれ、血まみれとなった老人の顔が脳裏をかすめ、思いとどまった。
たぶん…、やべえよ、きっと…。
M君は人形を見つめて、どうしたらいいのか考えた。
よく見ると、汚れた緑のワンピースの右脇が切り裂かれて、褐色の脇腹部分から白い何かがはみ出していた。
なんだろう。M君が引っ張り出すと、それは折りたたまれた紙だった。
広げると、中には難しい漢字がびっしり書き込まれていた。
……お札……。
紙が飛び出していた人形の脇腹には、身体のラインに沿うように切れ目が入っていた。
M君はそれを指で広げ、中を覗いた。
同じような紙が、体内に無数に詰め込まれていた。
M君は震えが止まらなくなった。
どうすんだよ、これ……。
…やっぱ……元の場所に返すのが…一番だよな…。
自分に言い聞かせるように、M君はラブホテル街に戻った。
そして白いビニールシートに囲まれたまま放置された廃ホテルに近づいた。
日も暮れ始め、薄暗い路地でホテルは異様なオーラを放っていた。
昼間と違って、もはや中に入る勇気はなかった。
M君は三○二号室と思しき窓を見上げた。
一枚の窓ガラスが割れていた。
ええいっ、ままよ。
罰当たりなのを承知で、M君は割れた窓めがけて人形を投げた。
人形は回転しながら、見事窓の中にすとんと落ちた。
やった…。
M君が安堵の笑みを浮かべた次の瞬間、窓の奥に大きな影がぬっと現れた。
影はゆっくりとうねりながら、部屋の奥へ進み、やがて見えなくなった。
まるで投げ入れられた人形を追うような仕草…。
M君は脇目もふらず、ホテル街を飛び出した。