Tさんが今から七十年近く前、国鉄・名古屋駅の売店で働いた頃の話。当時、駅では大きな痩せこけた犬が頻繁に目撃されたという。
ある時は駅のホームの片隅、ある時は連絡通路、またある時は線路で、トイレに現れたこともあったという。いずれも人の多くない深夜や早朝に出没するという。
おそらく野良犬が紛れ込んで棲み着いたものと思われた。終戦の混乱期なら、駅に棲みつくのは人間も同様に珍しくなかったが、戦後五年を経てその数もめっきり減っていた。
安全のため、職員による野良犬の捕獲作戦が行われたが、数匹の小型犬が捕まえられただけで、肝心の大型犬はなかなか見つからなかった。
いや、実際に犬を見つけて職員が追いかけても、途中で忽然と姿を消してしまうというのだ。
大型犬はがりがりに痩せこけているものの、走るスピードが速いことから、日本軍が改良した軍用犬が逃げ出したのではないかとか、駅構内でのたれ死んだ野良犬の怨霊ではないかなどと、職員の間ではまことしやかにささやかれた。
軍用犬はともかく犬の怨霊って……そんなものが本当に駅に現れるのだろうか。Tさんはいぶかしく思った。
当時は狂犬病も完全に根絶されていない時代だっただけに、本物の大型犬に襲われれば、命の危険にさらされる。それならまだ幽霊の方がいいわねと、Tさんは同僚と冗談交じりに話していた。
そんなある日、Tさんは売店の仕事を終えた後、商品の在庫整理を頼まれて、退社が深夜になった。
裏口に向かうため、人気のない駅の連絡通路を歩いていた。すると前方の影から、ふっと黒い大型犬が現れた。がりがりに痩せこけ、体長は一メートルほどだろうか。人間の子供ほどの大きさだった。
Tさんは緊張したが、犬のシルエットに奇妙な違和感を覚えた。
黒ずんだ体にはうっすらと体毛が生えていたが、犬と言うには、前足や後ろ足が長く感じられた。
ややうなだれた犬の頭がうなり声と共に上がった。
歯ぐきを剝き出しにして相手を威嚇する顔は犬というより、人間だった。しかも子供の……。
Tさんははっとした。その顔に見覚えがあった。
売店の仕事を始めたばかりの頃。まだ駅には戦争孤児となった浮浪児があふれていた。わずかな残飯を奪い合い、栄養失調はもちろん、不衛生な物を食べて中毒死する子供も珍しくなかった。
Tさんが少年を目撃したのは、売店近くのトイレの前で少年が倒れていた時だった。
全身が骨と皮だけのがりがりに痩せた少年を見かねたTさんは、浮浪児に物を与えてはいけないという駅の取り決めを無視して、飴玉を一つ与えた。
少年は笑みを浮かべたが、その時、Tさんに「どうせなら……犬に生まれたかった……そうしたら食べ物に苦労しないのに……」と息も絶え絶えにつぶやいた。
少年は飴玉のせいで少し元気を取り戻し、ふらふらふとその場を歩き去ったが、その様子を見ていた同僚から「一度エサを与えるとまたせびりにくるぞ」と注意された。
しかし少年は二度とTさんの前に現れなかった。
少年がその後どうなったかもわからない。しかしTさんは、少年によく似た顔の大型犬を決して気味悪く思うことなく、懐かしそうに優しく微笑んだ。
大型犬は二つの目で、Tさんのことをじっと見つめた後、彼女に背を向けると、四肢を動かし、あっという間に反対側の通路の奥へと走り去っていった。