日本一有名な幽霊と聞いて、皆さん思い浮かべるのは誰でしょうか?
日本三大幽霊と呼ばれる、「四谷怪談」のお岩さん、「牡丹灯籠」のお露さん、「番町皿屋敷」のお菊さん、それに続いて「累ヶ淵」の累さんといった面々でしょう。
中でも実在した人物がモデルになったと言われている「番町皿屋敷」のお菊さんなんかは、日本で一、二を争う幽霊と言っても過言ではないんじゃないでしょうか?
実際のところ、お菊さんのモデルとなった女性は日本各地に存在し、お菊さんにまつわる井戸やお墓が数多く残されているのですが、その中のひとつにお菊さんは神奈川県出身だったという話があります。皆さんはご存知でしょうか?
番町皿屋敷の元となった話は諸説ありますが、神奈川に伝わる「お菊さん」の話を紹介しましょう。
お菊は平塚宿後人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため江戸の旗本青山主膳方へ奉公に出た。
ある日、お菊は主人が大切にしていた家宝である十枚組のお皿のうち、一皿をなくしてしまった。
そのため主人の怒りを買い、お菊は斬り殺され屋敷内の井戸に投げ込まれてしまった。一説によると、主人、青山主膳の家来が美人のお菊を見染め、言い寄ったのだが、それを突っぱねられてしまい、憎しみの余り皿を隠したという。
そして、やはりお菊は皿をなくしてはいなかった。
まったくの無実の罪でお咎めを受け、悲しい最期を迎えたのだ。皿も後日見つかったという。
死骸は引き上げられ、罪人の例に倣って長持詰となり、馬入りの渡場で父親に引き渡された。
この時、父親真壁源右衛門は、
「あるほどの花投げ入れすみれ草」
と、句を詠んで悲しんだという。
源右衛門は刑死人の例に倣い墓は作らず、センダンの木を植えて墓標とした。
その後、青山主膳の屋敷のお菊が投げ込まれた井戸には怨みを抱いたお菊の霊魂が留まり、幽霊となって夜な夜な井戸より現れた。
という噂がモチーフとなって、
「一枚……二枚……三枚……」
でおなじみの怪談『番町皿屋敷』が生まれたという訳です。
このようなお話が平塚市に伝わっていますが、私が数年前に平塚に出かけた時、ちょうど現在のお菊塚がある場所、平塚駅近くの紅谷町公園を通りかかったのです。
恥ずかしながら、私は神奈川出身ですが平塚にお菊塚と呼ばれるお菊さんの墓があることや、ましてや、お菊さんが神奈川出身と言われている話などまったく知りませんでした。
なので、この公園をたまたま通りかかった時、ふと見ると、公園の片隅に石碑のようなものがあったので、
「これは何のものだろう?」
と近づいてみたのです。
それをよーく見てみると、石碑ではなく「お菊塚」と書いてある、あの『番町皿屋敷』で有名なお菊さんのお墓ではないですか。
「え!? なぜお菊さんのお墓がこんな所に?」
と、それはそれはビックリしたのですが、お墓の隣にある説明を読んで、お菊さんは神奈川県平塚市出身でこんな話が伝えられていると、その時初めて知りました。
そして、お菊さんのお墓に手を合わせて、平塚を後にしたのです。
さて、では私がなぜお菊さんのことをご紹介したのか、どんな理由があったのかは、これからお話しさせて頂きます。
正直言って、本書を執筆するにあたってお菊塚をご紹介する予定もありませんでしたし、番町皿屋敷のお話をする予定もありませんでした。
ですが、執筆中にこんなことが起こったのです。
ある日、私はこんな夢を見ました。
大きな石の前に立っている女性。
その中には一輪の白い菊の花。
女性は着物姿でした。
そして、こちらをじーっと見つめて霧の中に消えて行くのです。
そんな少し不思議な夢を見たのですが、ただの夢だと思って一日執筆をして過ごしていたところ、同じ夢を次の日の夜も見たのです。そして、その次の夜、また次の夜も。
さすがに、私もこれはただの夢ではないと思って、その日の夜も寝たのですが、またあの夢です。
大きな石の前で菊の花を持って立っている着物姿の女性。
私は、どういう意味があるのか教えて欲しくて、その女性に声をかけたのです。
正確には、声をかけることができたのです。
そうしたら、その女性が私に、
「いらっしゃい。いらっしゃい」
と言って手まねきをするのです。
そして、霧の中に消えて行く……。
私は起きてから1日ずーっと、その夢が頭から離れませんでした。
あの女性はいったい誰なんだろう?
「いらっしゃい」とはどういう意味なんだろう?
どこに行けばいいのだろう?
私に何を伝えたいのだろう?
そして、頭の中で「菊。菊。菊」と声が聴こえるのです。
その声は一日中、ふとすると聞こえてきて、もう「菊」とあの夢のことしか考えられなくなっていました。
気がつけば、それは1週間ずーっと続いていました。あの夢も、頭の中のあの声も。
夜眠りについてすぐに飛び起きるようにして、
「あそこだ」
と私はつぶやいたのです。
自分でも無意識で、「あそこだ」と言ったのですが、冷静になって考えてみて思い出したのです。
平塚のお菊塚のことを。
私はもうすっかりお菊塚の存在を忘れていました。
じゃあ、私がずっと見ていた女性は信じられないことにお菊さんだったのだろうか?
私はとりあえずお菊塚に行ってみようと決めて、また眠りについたのですが、その夜からあの夢を見ることはもうなくなったのです。
某日、平塚市、紅谷町公園お菊塚。
数年前に偶然お参りしたあの日と同じく、それはそこにありました。
今日は改めて手を合わせるので、お線香を上げさせて頂きました。
そうしていると伝わってくるようなのです。
お菊さんの気持ちが。
理不尽な殺され方をし、どんなに悔しかっただろうか。
どんなに無念だっただろうか。
花の盛りに命を絶たれたお菊さんの未来はどんな可能性もあったことでしょう。
お菊さんの怨念には計り知れない思いがあります。
けれど一方でお菊さんは、自分と同じように苦しい思いを抱えて生きている女性、理不尽に耐えてがんばっている女性、そんな女性を応援したい、力になりたいと願っているのではないかと。
そういう、お菊さんの気持ちが伝わってくるのです。
『番町皿屋敷』のお菊というのは、いろいろな人の話をモチーフに作り上げた怪談かもしれません。
けれど、
昭和27年に区画整理事業に伴って、そのときお菊塚があった真壁家墓地は9尺の深さに全面すべて手掘りで作業され移転されました。
その時、多くの見物人が見守る中、言い伝え通り、センダンの木3尺からお菊さんの遺骸は座り姿で現れました。
(『読売新聞』昭和56年8月25日版)
とあるように、実際に「お菊」という女性が平塚の地に眠っていたことは確かな歴史なのです。
そして、私はこのお菊塚を写真に収めたのですが、皆さんご覧ください。
この塚に浮かび上がる者の姿を。
着物を着て左側を向く髪の長い女性の姿には見えないでしょうか?
この姿がすべての答えではないかと思っています。
そして、思ったことなのですが、お菊塚には常にお花が絶えません。
私が居た最中にも、自転車に乗った男性が、スーッと来てわざわざ自転車から降りて、座って手を合わせていかれるのです。
私は平塚の方々のお菊様への沢山の愛を感じました。
お菊さんも心から皆さまに感謝していることでしょう。
お菊さん。私を導いて下さってありがとうございました。
これからも、沢山の人々を導き、お守りください。