編集部の怪異(東京都新宿区四谷) | コワイハナシ47

編集部の怪異(東京都新宿区四谷)

紐井君と僕は、一時期同じ出版社に席があったのだが、このとき彼のいた編集部が入っていた四谷のビルそのものも、怪異が絶えない所である。

そもそも四谷という土地柄、三島由紀夫切腹の地・自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省)の至近、そして比較的この手の怪談ごとが多い〈出版社〉という符丁を考えれば、何もないほうがおかしいと言えないこともない。

このビルに移転して間もない頃の話。

当時、僕の同僚だった玉木さんと小山さんが、八階の編集部で仕事の合間の雑談に花を咲かせていると、「○○○さんより電話、連絡乞う」と記したありふれた連絡メモが二人の間にひらひらと舞ってきた。

「あっ、メモ」

彼女達はその編集部に来たばかりで、電話番以外に大した仕事もさせてもらえなかった頃のことだから、数少ない仕事くらいはしっかりやらねばと慌ててメモを拾い上げた。

拾い上げたところで二人は気付いた。

──このメモ、どこから飛んできたの?

周囲の窓は締め切りになっていて開けることができない。その日は空調が止まっていて室内には風もない。何より、玉木さんと小山さんの周囲三メートル以上の場所にはメモを貼り付るボードもスタンドもない。

メモは、何もない空間から二人の目の前に降ってきたのだ。

小山さんは少し『見える』人らしく、しばしば見たくないものまで見えている。

「七階の編集部の入り口ね、よくおじいさんがしゃがんでいるのよ。あの近くにある打ち合わせスペースでときどきお昼を食べてたんだけど、おじいさんと目が合ったりして嫌だからあんまり入り口を見ないようにしてるの」

紐井君のいた編集部に、高島君という編集者がいた。

二十代前半の若手だとはいえ、編集部での連日の徹夜はなかなか身体に堪えるものだ。

高島君は原稿から目を離し、椅子の背もたれによりかかって伸びをした。

身体中の関節を鳴らしつつ、ふと頭上を見上げるとこちらを覗き込んでいた女と目があった。

女は高島君の背後にある、高さ二・五メートルはあろうかというロッカーの天板とフロアの天井の僅かな隙間から、高島君の様子を窺うようにじっとこちらを見つめていたのである。

最初、ロッカーを挟んで隣にある別の雑誌の編集部の人かと思い、ロッカーの裏に回って訊いてみたがそんな人はいないと言われた。

もう一度、自分の席に戻ってロッカーを見上げたが、もう女の姿はなかった。

高島君の向かいの席に、志津谷君という編集者がいた。

志津谷君の席は、六階のフロアの入り口を直視できる場所にあり、同じフロアにある三つの編集部の人間の出入りが一望できた。

彼らの隣には隔週刊のゲーム雑誌を作っている編集部があった。そこはいつも不夜城のようで、ライターや外注スタッフの出入りが絶えず、常に誰かが泊まり込んでいた。

時折、すべてのスタッフが引き払って誰もいなくなってしまうことがあった。

そんなときは、もはや住み込んでいるに近い志津谷君や紐井君達に一言声を掛けていくのが常だった。

「じゃ、僕らこれで引けますから。隣、誰もいませんのでよろしく」

「お疲れさまです」

最後の一人を送り出して、志津谷君は六階に一人きりになった。

明け方近い時間、隣の編集部から何かを落とす音がした。

モニターテレビを机の上から床に落とした……というくらいの大音響だった。

「な、何だ何だ?」

──誰か残っていたのかな?

トイレに立つついでに隣の編集部を覗いてみたが、もちろん誰もいない。人の出入りは志津谷君の席から一望できるはずだが、誰かが通った記憶は全くない。

雑誌編集部の例に漏れず隣は雑然としていたが、破片が飛び散るような落ち方をした機械もない。

志津谷君は薄気味悪くなって自分の席に戻った。

その後も、咳払いや笑い声、ゲーム機で遊ぶ音などが絶えなかった。最初のうちは音がする度に席を立って様子を確かめていたのだが、あまりにも多く続くのでだんだん馬鹿らしくなってやめてしまった。

そんなわけだから、この編集部で仕事をする編集者は少しくらいの怪異では驚かなくなった。それでも、やはり生々しいものに圧倒されることはある。

ある晩。例によって紐井君達は泊まり込みで仕事をしていた。

ライターの原稿を整理するのに夢中になっていた紐井君が、唐突に叫んだのが始まりだった。

「うひょうわうあうっ!」

「何だ、何だ?」

見ると、ペンを握りしめていた紐井君の手が鮮血で真っ赤に染まっていた。

「紐井ちゃん、どうしはったのその怪我?」

「俺、怪我なんかしてないっすよ!」

紙の縁で指先を切ったとしても、こんなに大量の血は出ないだろう。手首の血管を切るほどの大怪我だと言われたら納得してしまうほどの血の海だった。

「ああ、騒いだらあかん、原稿に血が付く!」

そう言って、高島君は紐井君の右手から血をぬぐい取った。何枚かのティッシュがみるみるうちに赤く染まっていった。

「変なコトはええ加減慣れたつもりやねんけどなぁ。もう勘弁してほしいわ。なー志津谷ちゃん」

「全くだね。あ、ところで、高島さんロッカー貸して」

「ええよ」

志津谷君は高島君のロッカーの扉を開けた。

「わあっ!」

ロッカーの中には、血塗れの『右手』を擦り付けたような痕が付いていた。

「お、俺じゃないっす」

「わ、わぁっとるわい!」

血痕は乾いて瘡蓋のようになっていた。

紐井君の手が血に塗れたのよりも遙か前から付けられていたようだ。からからに乾いた血痕は、志津谷君が爪の先で軽く擦るとぱりぱりと剥がれた。

「紐井さんの血を高島さんが拭いたら、高島さんのロッカーにその血が付いてた、と。今度は俺のほうに血が付いたりして」

「やめや、そーいうの!」

爪の間に挟まった誰のものともつかない血糊を洗い流すため、洗面所に立った志津谷君が戻ってくると、今度は志津谷君の机の上に、『指』で引っかくように擦り付けられた血の跡がべったりとこびり付いていた。

この他にも、逆さ吊りの男が女子トイレの窓から覗き込んでいたり、物がなくなったり現れたりと挙げ連ねればきりがない。

編集部には明日香宮から貰ってきた御札が置いてはあるのだが、どうやらあまり効果はないらしく、怪異は一向に衰える様子もないようだ。

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