伊佐沼の怪(埼玉県川越市) | コワイハナシ47

伊佐沼の怪(埼玉県川越市)

埼玉県川越市東部に位置する、自然沼としては県内最大、関東地方においても印旛沼に次ぐ二位の大きさを誇る沼で、南北約一三○○メートル、東西に約三○○メートル。南北朝時代、古尾谷氏の家臣、伊佐氏が沼を溜池にしたとされる。呼び名はそこから伊佐沼となった。戦時の食料増産の為、干拓が行われ、広さが約半分となった。

一年を通して釣りが楽しめ、ヘラブナ、マブナ、コイ、雷魚等が釣れた。春には桜、初夏には古代蓮の花が見られ、周囲を散歩する人も多く、伊佐沼公園が隣接しており、冒険の森、野外音楽堂、遊歩道等、家族連れでも楽しめる場所が多くある。

小江戸川越花火大会は安比奈親水公園と交互に場所を変え実施される。これも周辺の住民には親しまれている行事である。

私がここを最初に訪れたのは、一九八三年一二月の事。

母の弟である、釣り好きな、通称「あんちゃん」に連れて来られたのが最初である。それはまた、私の夜釣り初挑戦でもあった。

二つ沼の項でも記載したが、夜釣りというのは興味深く、浮きが見え辛くなるので、竿先に鈴を付け、その鈴の音を頼りに魚のアタリを察知して、竿をあげるのだ。

子供の時分の私は、多くの釣り好き少年が思い込むように、どんな釣り場に行き、どんな天候でも、どんな悪条件でも、何かしら釣り上げて帰るので、これは俺は釣りの天才ではないか、本気で竿匠にでも弟子入りして、その道に進まねばならないのではないか? という勘違いをしており、釣りに関しては結構本気で向かいあっていたのである。

そんな釣り好きの前に、一人前の証として立ち塞がるのが、メートル級の鯉である。これを一人で釣れれば、周りからも一目置かれ、大人の仲間入りという空気があり、当時の私は鮒や雷魚釣りで腕を磨きながら、巨大鯉との戦いに備えていた。

「おい、夜釣りに行こう! 鯉が釣れる場所があるんだ」

あんちゃんからそう誘われたのは、もう年の瀬の一二月だった。そうして、道具やら防寒の為の装備を持って、伊佐沼に初めてやって来た、という訳であった。

この時の伊佐沼は全体の三分の一程度が干上がっており、沼の中に降りられた。そのまま歩いて、水際まで行き、ポイントを狙うのだ。

息が白く、深夜から明け方までの夜釣りは、どう考えても大人の娯楽という感じがあり、それに参加出来たのはとても興奮する体験だった。

その夜の参加者は、あんちゃん、あんちゃんの釣り友達のNさん、同じくFさん、私の四名。今思えば笑ってしまうが、三〇代の大人に交じって、私は大きな顔で輪に加わり、ブラックコーヒー等を飲んで体を温めていた。

まずはポイント決めが行われ、あんちゃんが逆U字になった、飛び出した陸地に陣取った。その横の立ちこみの木が多いエリアを左右に分かれてFさん、Nさんがそれぞれ狙う。少し離れて、小さい藪のような葦の密集した場所の中に椅子を置き、私が竿を出した。

鯉の回る沼の中の周回コースに釣り針を落とす事が最初の仕事であった。大きな鯉を狙うには、吸い込み針という道具を使う。練り餌を付けるらせん状のコイルの外側に、三本の針が付いていて、それを練り餌に埋め込む。鯉は、大きな口で沼底の泥や何かを吸い込み、餌だけ摂取する。そこを餌ごと吸い込ませ、針を掛けるという仕組みである。

練り餌というのは独特の匂いがして、これを嗅ぐと、ああ釣りだなと思ってしまう。夜の沼の縁で、ボールでこいつを作っていると、笑い出したくなる楽しさがある。針と仕掛けに付け、用意は完了。狙いを付けた、沼中から群生している、ひと際太い葦の傍に投げ込む。

ドボンという音がして、餌が暗い水中に消えていく。私の右の方向から、ひそひそと話し声が聞こえて来る。FさんとNさんが何やら作戦会議をしているようである。

釣りをされない方は、あまりご存じないかもしれないが、魚は音に神経質なので、基本的に大きな声や音は、釣り場で出してはならない。話す時は小声が基本だし、歩く時も忍び足的に静かに歩かないと、周囲から苦情が来る。

その時は夜釣りで、ただでさえ周りが静かで、音が際立つので、より慎重に行動していた。鯉は警戒心が強く、大きな音を立てたらしばらく寄り付かない。

当時の伊佐沼は、結構大きな鯉が釣れており、あんちゃんの釣果を見せてもらった時は胸が躍ったものだ。腹が太く、ぎょろっとした目と大きな口が存在感抜群で、湖の主といった風格があった。是非ともこれを自分で釣りたいと思い、今回初挑戦したのだ。

その日の伊佐沼は、離れた所にも釣りの一団が点在しており、ライバルは多いようだ。他の皆も行動が早い。撒き餌を撒き、竿を投げ入れると、静かに席を立ち、周囲のポイントを見て回り、次の候補を下見している。

私は竿を投げ入れ、良い場所に落とし込むと、鈴を取り付ける。その後、他の大人の真似をして、周囲を見る為、そっと折り畳み椅子から立ち上がる。

時計を見ると二四時を回った所、辺りは大分寒くなった。息が白く、手袋をしていても指先が痛い。冷えて来たので携帯懐炉を出した。

歩き回って近所を視察、私の右側には近い方から、Fさん、Nさん、あんちゃんの順番で、各時三〜五メートル程の間隔を開けながら、釣り場を決めたらしい。

左側には近い方から、無人の小藪、少し離れ、二人程人影が見える倒木がある空き地(誰かが椅子代わりに持って来たらしい)、その横に一人釣りの人が三人程、広い面積に散らばっている。

有名な沼ではあるが、今日は満員御礼と言っていい人出だ。夜釣りはそもそも、余程好きな人しかしない。今は道具も服も格段に良くなっているので、イベント的に出かける人も多いかもしれないが、当時は夜釣りに行きます、等と言うと、呆れられる方が多かった。

自分の周りを視察したのには理由があり、野外のレクリエーションでは、トイレの場所や、作業をする時の場所を決めておくのは重要だ。今日は左横の葦が茂った、少し藪のようになっているエリアがよかろうと判断した。

釣り始めてしばらくすると、左の方から草をかき分ける音がする。どうやら、二人連れの釣り師が移動か何かしているらしい。それから数十分後に、Nさんが後ろを通りがかり、調子はどう? と聞いてきた。トイレに行ってくるよ、と言い、Nさんが左後方の暗闇に消えていく。今度は左から歩く音が聞こえ、後ろを通り過ぎていく。今日は人出が多いので賑やかだ。

Nさんが戻って来て、どうも今のポイントは調子が悪い、左が空いているからそっちに行こうかなと言う。

「え? 今日は凄く混んでますよ? 確か五人位居ますよ?」

私が言うと、Nさんは手を左右に振って、

「今トイレがてら見て来たけど、あっち(と言って左を指さして)は誰も居ないよ?」

それはおかしい、一時間前に見た時は人が居たのだ。急に居なくなるにしても、音位するだろう。しかし、ポイントを探るような、草をかき分ける音がしたのは聞いたが、それ以上の音はしなかった。

いや、よく考えればそれがおかしいのだ。針を投げ込む音すら一回もしなかったような気がする。あれだけ釣り人が居て、誰も仕掛けを投げないのであれば、何の為にここに来ているのか分からない。

Fさんがやって来た。何やら怪訝な顔をしている。

「さっきさ、左の方からガサガサいうからさ、ちょい静かにしてくれって声かけようとしたら、誰も居なかったんだよね。そんで探しにきたら、ここ来ちゃって……」

「おいおい、止めろよ! しんちゃんもFもさ、釣りに来てるんだから。おっかない事言うなよな……」

「嘘じゃないよ。最初に見た時は、左の方は人結構いたよ!」

私は自分が散策した時の様子を思い出して言った。満員御礼だな、と呟いたのはついさっきの事だ、間違える訳が無いのだが……。

あれだけの人数が釣りをしていて、全く音が聞こえなかったのはおかしいが、私とFさん達の間には誰も居なかった筈だ。

居る筈の場所に人影が無く、居ない筈の場所に人影がある。これは一体何だろうか……大きな鯉を釣りに来たのだが、妙に背中が寒くなってしまった。

NさんとFさんが、二人で見てくると言って離れていった。流石に大人でも不気味に感じたのだろう、Nさんが懐中電灯を握りしめ、Fさんが釣竿を立てる竿立ての棒を構えて後ろに付いていく。まるで泥棒退治のような様相だ、とても釣りに来ているとは思えない。

私は、魔法瓶からコーヒーをカップに注ぎ、ゆっくり飲み始めた。何だか今日はざわざわする。落ち着かないというか、妙な気配が常にする感じがして、釣りに集中出来ない。

弱ったなぁ、と思っていると、右側の藪から声がした。

「……いません、いいですか?……ますか?……」

そんなように聞こえた。私はえ!? と思って、藪を見つめた。背の高い葦の向こうでかすかに黒い人影が動いている。

あれ? 人いるじゃないか、Fさんが言ってた人だ。そう思って、小声で答えた。

「はい、何ですか?」

「すいません、ちょっといいですか?……来れますか?」

何だろうと思って右手の藪に近付いて行った、と同時に釣り竿が鳴った。

「リリリリリリリッン!」

魚のアタリがあったのだ。音からすると結構大きい奴が暴れていそうだ。間の悪い時に声を掛けられたものだ、と思って藪の方に声を掛ける。

「すいません! ちょっとアタリがあって、ちょっと待って下さい!」

私は急いで席に戻り、竿を手に取り、タイミングを合わせるのに夢中になり、右の人の事が瞬時に頭から消えた。しばらく悪戦苦闘し、ようやく釣り上げた。中々の型の真鯉で、私は目的が果たせた事に安堵して、鯉を魚籠に入れると、放心したように椅子に座り込んでぼうっとしていた。

左手から声が聞こえて来て、NさんとFさんが戻って来た。

鯉を見せると、二人とも少し元気を取り戻したように喜んでくれたが、すぐに黙りがちになり、後ろを気にするように振り返っていた。

「やっぱりさ、誰も居ないんだけど、凄く足跡はあるんだよね……」

「他の日に来た人のじゃないの? 沼の底だから土も柔らかいし、足跡なんて幾らでも残るでしょ。ねぇ、しんちゃんもそう思わない?」

「そりゃ、全部が今日の足跡だとは言わないよ。でも、それじゃ沼から続いていた、あの水の溜まった足跡は何だよ? あれは、どう見てもついさっき、って足跡だろう?」

そう言えば、あんちゃんが何も言ってこない。心配になった私達は皆で様子を見に行った。右端で竿を投げ込んだ後、音沙汰が無かったのだが、ちゃんと座っていた。

「あんちゃん! 大丈夫か?」

私が声を掛けると、座っていた人影がびくっとし、少しして伸びをした。

「おう! 寝ちゃったよ……ああっ? 何だこれ?」

私達は拍子抜けするような声を出した、あんちゃんに近付いて行った。

あんちゃんの着ていた、釣り用のグレーのツナギに、べっとり泥が付いている。背中に数カ所、ゴム長と太ももの辺りにも数カ所。まるで狙って泥水をバケツか何かでかけたような有様だ。

立ち上がって泥を落とすあんちゃんの事を、Nさんが懐中電灯で照らした。すると、近くにやはり水の溜まった足跡があり、そのまま沼に続いていた。

「ちっくしょう! 誰だよこんな悪戯したの!? お前らか?」

誰も笑わず、声も上げない様子に、あんちゃんも異常事態と気付いたらしい。

「何? 何よ? ちゃんと言えって! どうしたのよ?」

私達は今まであった事を話した。あんちゃんは黙って聞いていたが、人影がという度に大きく頷いていた。何か心当たりがあるのかと尋ねると……。

「知り合いの造園屋の社長さんでな、息子が何ていうか、まぁヤンキーでさ、バイク乗り回してるんだけどな、その社長さんとこに、この前顔出したら変な事言ってたのよ」

「うちの馬鹿が、この前夜遊びして帰って来て、変な事言ってたんだよ。伊佐沼の周り通ったら、沼に一杯人が居て、しばらく見てるうちに消えてしまったってよ。何かあるんかねぇ……俺はただの沼だと思ってたけど」

そんな事を聞いたそうだ。

あんちゃんが知る限りでは、伊佐沼は時折干上がっている部分の増減はあっても、釣り好きが随時訪れていたし、大きな事故があったという話も聞かないが、一つだけ、小学生の子供が溺れたという話は結構有名で、それで伊佐沼での釣りが禁止になった学校があるとの噂もあったという。どこの何という学校かは分からないが、その話や噂は、伊佐沼に釣りに来る人の殆どが知っているという。学校で禁止になる位なら何か実害があったのかもしれない。

私達が見たのは、あくまで人影のような物で、溺れている子供では無かったが、もし事故が起きていて、水場という環境がその他の良くない物を呼び込んでいないとも限らない。

この体験以来、私とあんちゃんは伊佐沼に行かなくなった。何となく沼全体が不気味に見え、居辛い感じを覚えたからだ。

伊佐沼は今も現存している。

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